認知症、早期発見・治療など愚の骨頂!患者増やしたい病院や製薬会社の戯れ言!
認知症に対して社会が寛容になるといっても、そう簡単には解決しません。寛容な社会が実現するまでは、なんとか個人で対応するほかありません。
個々の認知症を心配する患者さんは、いろいろな症状をきっかけに心配が始まります。物忘れについての症状は、そのなかでも最も多いものでしょう。
よく、「昨日の晩御飯で何を食べたかが思い出せない、というのは心配なく、食べたかどうかが思い出せないというのが認知症の始まりだ」というような説明がなされます。しかし、そうはいっても、やっぱり以前は何を食べたかを忘れることのなかった人が、食べたものを忘れるようになれば心配になるわけですし、明日には食べたことも忘れるようになるかもしれないという心配に容易につながっていくわけです。また、本人だけでなく家族も、「前はこんなことはなくて、記憶力はいい人だったのに」と心配はなかなか止まりません。
この心配をどう止めるか。少なくとも早期発見・早期治療ではありません。そういうことを言いだすのは、薬を売りたい製薬メーカーや患者を増やしたい医療機関です。あるいは勉強不足の医師たちです。
早期発見はむしろ心配を増幅します。心配していない人まで心配させます。さらに早期に有効な治療法は残念ながら今のところありません。その単純な事実さえ覆い隠されています。有効な治療があるとしても、そうした心配の増幅を上回るような効果があるかどうかが重要で、単に有効というだけではだめなのです。
さらに問題となるのが、個人の心配を個人でどうコントロールするのかという点です。
心配の根源には、「今日の忘れる自分は、昨日の忘れない自分と違う」ということがあります。そこには、自分はいつまでも忘れるようにはならない、あるいはならないでいたいという無理な願望があります。
「無理な願望」と書きましたが、多くの人が心配している物忘れは、年とともに徐々に悪化し、避け難い面があるわけです。そこに抗うよりは受け入れたほうがいいのではないか、という単純な対応方法です。
人はだんだん死んでいる
昨日の自分に比べれば、今日の自分は少し忘れるようになっているのが普通です。それでいいじゃないですか。物忘れだけでなく、生き死にで言っても、だんだん死んでいるわけです。昨日の自分に比べれば、今日の自分は確実に死に近づいているのです。