我が子の学力、親による「習慣形成」が大きく左右…意思とは無関係に自然と勉強に励む
「宿題まだでしょ、ちゃんとやってから遊びなさい」
いくら言っても机に向かわないため、
「何やってるの! 宿題やらないとダメでしょ!」
「早くやりなさい!」
と声を荒げる。そして、
「なんでウチの子はいつもこうなの。嫌になっちゃう」
と嘆く。よくみられる光景である。
一方で、宿題を手っ取り早く済ませてから遊び始める子どももいる。何が違うのだろうか。
習慣形成の意義は、意志の力が不要になるところにある
宿題をやらずに遊んでばかりいる子どもを見て、どうしたら宿題をちゃんとやらせられるかに頭を悩ます親が少なくない。誰だって宿題をするより遊んでいるほうが楽しいに決まっている。
やらねばならないということは頭でわかっていても、なかなかやる気になれない。怠け心に負けてしまう。それはだれもが経験していることのはずだ。学校時代を振り返っても、試験勉強に集中しなければいけないと思っても、なかなかやる気になれず、ダラダラしてしまう、つい気晴らしに走ってしまう。そんなこともあっただろう。
大人になってからも、似たような経験をしている人が多いはずだ。ダイエットのために毎日帰宅後に運動をしようと決め、最初の1週間くらいは続いても、
「今日は疲れてるからやめよう」
「今日はアルコールが入ってるからやめよう」
などと、「まあ、今日くらいいいだろう」といった心理が働き、ついついさぼりがちになり、ついにやらなくなってしまう。
自己啓発本に刺激を受け、仕事力を高める自己研鑽のため、毎朝30分早く起きて勉強をしようと心に決める。わずか30分でも毎日の積み重ねは大きい。これで自分もかなり力をつけられるはず。そう思って始めるが、やはり朝は眠い。目覚まし時計が鳴っても、眠気に打ち克つことができず、「まあ、今日くらいいいだろう」と再び眠ってしまう。そんな日がしだいに増え、そのうち立ち消えになってしまう。
このような苦い経験は、だれにもあるのではないだろうか。
勉強でも仕事でも運動でも、何かを継続するには根気がいる。「ちゃんとやらなくちゃ」と頭では思っていても、行動がついていかない。つい怠け心に負けてさぼってしまう。どうしても安易なほうに流されがちだ。そこを踏み止まって継続するには、強靱な意志の力が必要となる。ゆえに、たいていは怠け心に負けることになる。
そこで大切なのが習慣形成だ。早起きが習慣になっている人は、とくに意志の力を発揮しなくても、当たり前のように早起きができる。毎晩運動することが習慣になっている人は、とくに努力しなくても運動を継続することができる。毎晩夕食後に机に向かうのが習慣になっている人は、食事が終わると自然に机に向かっている。
習慣形成のもつ意義は、まさにそこにある。いったん習慣化すると、頑張って意志の力を発揮することなしに、ほぼ自動的に望ましい行動を取ることができるのである。
まずは小さな習慣形成から
習慣形成がいかに有効なものであるかがわかったはずだ。でも、子どもの習慣形成というと、食習慣や睡眠習慣など、生活の基本的なサイクルにかかわる習慣づくりが連想されがちだ。育児情報でも、そのような習慣をつけさせることの大切さが説かれている。
もちろんそうした習慣形成も大切だが、教育心理学の立場からすると、本を読む習慣や机に向かう習慣を身につけることが、その後の学力向上にとって非常に重要と言わざるを得ない。
かつては学校の先生が厳しかった。私の子ども時代には非常に厳しい先生がいた。机に向かう習慣がなかった私などは、宿題をせずに毎日遊び回っていたため、甘い先生のときは宿題忘れのグラフで首位を独走していた。ところが、転機が訪れた。メチャクチャ厳しい先生が担任になったのだ。宿題をちゃんとやらない私は毎日厳しく叱られた。容赦なかった。そのお陰で、私は放課後に遊んだ後、夕食後に宿題をちゃんとやるようになった。毎日机に向かうのが習慣になった。
だが、今はそんな厳しい先生はいない。今どきの先生たちは、保護者のクレームを怖れ、義務を果たさなくても叱らず、良いところをほめ、子どもの気持ちを傷つけないように気をつかわなければならない。ゆえに、学校に任せていたら、子どもに望ましい習慣形成を促すことはできない。
保護者のクレーム対応に先生たちが疲弊しているというのは、メディアを通して知っているはずだ。子どもの望ましい習慣形成を学校に任せられる時代ではなくなっているのだということを、まずは自覚しておかねばならないだろう。
そこで、家庭においていかに望ましい習慣を身につけさせるかを工夫する必要がある。たとえわずかな時間であっても親が一緒になって本を読んだり、宿題を済ませたらテレビを見てもいいという方針を貫いたり、家庭によってやり方はさまざまだが、無軌道にならないような工夫が求められる。
冒頭にあげた例のように、いくら親が声を上げて叫んでも、嘆いても、子どもの行動パターンが変わることはない。大事なのは、少しずつでいいから習慣形成をしていくことだ。
哲学者ジョン・ロックも強調する習慣形成の威力
近代教育思想の確立にも大いに貢献した、著名な哲学者ジョン・ロックも、習慣形成が教育において担う役割を強調している。
「子供の精神の形成とその早期の鍛錬には大いに注意しなくてはなりません。これらのことは、いつも将来の子供の生活に影響を与えるのです」(ジョン・ロック 服部知文訳『教育に関する考察』岩波文庫、以下同書)
このように、子ども時代に望ましい行動を習慣化することが将来の生活に大きな影響を及ぼすとするロックは、とくに克己心の大切さを強調する。
「体力は主として困難に耐えることにあるごとく、また精神力についても同様です。そしてあらゆる徳と価値の偉大な原理と基礎が置かれていますのは、人間は自己の欲望を拒み、自己の傾向性をおさえ、欲望が別の方向へ傾いても、理性が最善として示す処に純粋に従うことができるという点です」
このように、負荷をかけることによって身体が鍛えられるのと同じく、自分の欲望を我慢することによって精神力が鍛えられるとする。そして、欲望を我慢する力は子どもの頃からの習慣によって培われる、といった視点を示している。
その意味においても、子どもと約束して、何らかの決まりに従うように仕向けることが習慣形成の第一歩になるだろう。
「あらゆる美徳と美質の原理は、理性が認めないような自分自身の欲望を充足することを自ら斥ける力にあることは、明らかであると思われます。この力は、習慣によって得られ、増進されまた早くから実行して、わけなく身近なものにすべきです。そこで、もし耳をかしてもらえるなら、通常の方法に反して、子供はゆりかごにいる間からさえ、自分の欲望を克服し、熱望するものをもたずに我慢することに慣れるようにすべきだ、と忠告したいと思います」
最近は、教育界でレジリエンスという言葉が重視されるようになってきつつある。自分の思い通りにならないような状況になると、すぐに落ち込んだり、かんしゃくを起こしたりする子どもたちが非常に多くなっているからだ。一方で、そんなときも冷静さを失わず、頑張り続けることができる子もいる。そこには、いわゆるレジリエンスの違いがあるのだ。
もちろんロックの時代にはレジリエンスという概念はなかったのだが、今風に言えば、そのレジリエンスの違いをもたらすのが、幼い頃から自分の欲望のコントロールを習慣化できているかどうかだというのが、ロックの考えだと言ってよいだろう。
ロックは、子ども時代に欲しいものを何でも与えられ我慢せずに育った者は、大人になってから酒に溺れたり女に溺れたりするが、我慢する習慣を身につけてきた者はけっしてそのようなことはないといった例をあげ、「その相違は欲望があるとかないとかいうことではなくて、その欲望のうちにあって自己を統御し、克己する力にあります。若いときに、自己の意志を他人の理性に服従させることになれていない者は、自己の理性を活用すべき年齢になっても、自分自身の理性に傾聴し従うことは、めったにないものです」とする。
そして、そのような違いは子どもの頃のしつけに起源があるとし、「一方の子供は欲しがったり、わめいたりするものを与えられるのが習慣になっており、他方の子供はそんなものなしに我慢するのが習慣になっている」というように、どのような習慣を身につけているかで大人になってからの人生が大きく違ってくることを強調している。
子どもの将来のためを思うなら、習慣形成の重要性をここで再認識しておく必要があるだろう。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)