ある程度適当に物事をこなせる生徒は、その一部だけをしっかりやろうとする。そういう生徒はうまくいきます。完璧を目指すと、自分で自分の首を絞めてしまう。完璧が壁になってしまうのです。そうではなく、身近な目標を考えて、その目標の半分できればいい。その半分ができたら、目標をリセットし直して再度短期でがんばる。その時には、がんばったこと自体を評価する。
がんばったことによる結果を評価すると、その結果が壁になってしまいなかなか伸びません。特にできない子には、「目標の半分を達成したら、目標をリセットする」を繰り返しさせると、初めに思っているよりは高い壁を越えられます。
――受験勉強の経験というのは、ビジネスパーソンを含め、その人の将来において何か役に立つことはあるのでしょうか?
西 あらゆる経験は、すべてプラスにはなると思います。でも、それは後から考えてわかることで、事前に予期はできません。ですので、生徒はそういうことを言われても困ると思いますので、僕は言わないようにしています。
受験勉強には、大きく2つの点で、その後の人生にとって良い点があると思います。ひとつは、大学入試に落ちてものすごく悔しくても、他人から見れば大したことではなかったりする。それは大学入試だけに限らず、同じ出来事でも、本人が感じていることと、他人がそれについてどう感じているかというのは違います。
つまり、他人から見て大したことがないことでも、自分はしっかり痛かったという経験をすることで、他人が苦しいと言う時に、自分から見て大したことないことでも、「当人には辛いのだろうな」と想像できるようになる。そういう他人の痛みがわかるようになる経験ができれば、対人関係を構築する能力が高まります。
もうひとつは、受験は答案用紙でアピールできなければ当然落ちます。生徒にとって、それまでの人生では失敗しても言い訳の余地があったりするけど、受験は結果がすべてで、誰のせいにもできない。言い訳のできない初めての経験ではないでしょうか。社会に出て、仕事に就けば、結果だけで判断される。その前に受験で擬似的に体験できることは大きいと思います。
――特に難関大学の受験問題では、「論理的思考」というものが問われるといわれますが、この「論理的思考」について、西さんはどのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか?
西 「論理的に考える」というのは、何かを発信したいと思う場合には不可欠な要素です。特に日本人の場合は、いわゆる腹芸で意思を伝えるというか、共感に頼る部分が大きいのですが、それでは立ち行かなくなる場面が多くなるでしょう。グローバル化ということもありますが、世代間、あるいは都会と田舎では共感による意思疎通がますます難しくなっていっているからでもあります。
しかし、論理的思考は、あくまでも不可欠な一部にすぎません。論理化するというの
は、いわばノイズを切り捨てて線形にすることで効率を高めて伝達するということですが、その切り捨てられたノイズこそ重要だということもあるからです。
一見無駄に見えるものが、実は全体の調和に役立っているということは多いものです。
ですから、論理的思考を身につけつつ、それがすべてではないということは念頭に置いておくことが必要でしょう。
――論理的思考を身につけるためには、どうすればよいでしょうか?
西 受験生には、隣に口うるさい大阪のおばはんがいるものと仮想しなさい、とよく言っています。何か言うと、「なんでやねん」「ほんまか」「証拠見せてみ」「そんなん人によるやん」と、すかさず突っ込んでくるおばはんです。それに対応することが、論理的展開、いわゆる説明責任を果たす、ということに近づくことになるからです。そこで共感を期待してはいけません。相手を納得させる必要があるのです。大阪のおばはんは手ごわいですよ(笑)。