有名なバスティーユ牢獄襲撃から4年後の1793年、革命政権は内憂外患の危機にあった。国内では事実上の徴兵に反対する農民の蜂起が広がり、国外では革命打倒を狙う第1次対仏大同盟が結成されていたからである。
同年6月、議会から穏健なジロンド派が追放され、ロベスピエール率いる急進的なジャコバン派の独裁政権が成立した。同政権は内外の危機を、政府の強烈な権限強化で乗り切ろうとする。その象徴といえるのが、同年9月に導入された「嫌疑者法」である。
嫌疑者とは反革命容疑者の意味だが、定義が曖昧であるため、ほとんど誰でも容疑者とみなして逮捕することができた。その多くはギロチン(断頭台)に送られる。同法によって処刑されるか獄中で死亡した犠牲者は合計3万人近くに達したといわれる。すさまじい弾圧は1794年7月、ロベスピエール一派が反対派のクーデターで失脚するまで続いた。
ジャコバン派によるこの独裁政治は、恐怖政治(フランス語でLa Terreur、英語でReign of Terror)と呼ばれる。これが政治用語としてのテロ(英語でterror)という言葉の起こりである。
テロリストという言葉もここから始まった。多数の国民の生命を奪ったロベスピエールは、「史上初のテロリスト」と呼ばれる。
つまり、テロリストとはもともと、政府にそむく勢力や暴徒ではなかった。国民を敵から守るという名目で国民の生命・財産を奪う、政府当局者を指したのである。
近代民主主義の出発点であると同時に、テロの起源となったフランス革命。その流れを汲むフランス政府が現在、「テロとの戦い」を声高に叫ぶのは、なんとも皮肉である。
政府の国民に対するテロ
もちろん現在では、テロという言葉は恐怖政治という元の意味から離れて、反政府勢力による暴力を指す場合がほとんどである。それでもテロの起源が政府にあるという事実は、テロ対策を名目とした政府の権限強化がエスカレートする現状に対し、重要な警鐘となるだろう。政府が国民に行使しうる暴力や強制力は、たいていのテロリストよりはるかに大きいからだ。
安全のためなら自由が多少束縛されるのはしかたがない――。そう考えている人は、フランス革命前夜に駐仏大使を経験した米国の政治家ベンジャミン・フランクリンの言葉を覚えておくべきだろう。
「安全を得るために自由を放棄する者は、そのどちらも得られないし、得るに値しない」
(文=筈井利人/経済ジャーナリスト)