台湾総統選挙の投開票まで1週間を切った。現職総統の民進党・蔡英文が圧倒的有利の中で12月13日に公示された選挙戦は終盤を迎えているが、公示前に中国に関係する2つの“フェイクニュース”が浮上。選挙戦に大きな影を投げかけ、総統選挙ばかりか選挙後の台湾を大きく左右することになりそうだ。
蔡英文率いる民進党は一昨年11月、中間選挙とも位置付けられる統一地方選挙で、改選を迎えた22県市長のうち現有の13県市長から7つを失う歴史的惨敗を喫した。年金、司法など就任時に打ち出した4大改革がまったく成果を挙げず、対中関係の停滞から経済も低迷。台湾有権者は蔡英文政権にノーを突き付け、支持率は20%を割り込んだ。
蔡は統一地方選挙を前に、高雄市長だった陳菊を総統府秘書長に、台南市長だった頼清徳を行政院長に抜擢し政権浮揚を図ったが、その頼の支持率が低迷し、人気も地に落ちた蔡では総統選挙を勝ちきれぬ、と党内予備選を前に行政院長を辞任。蔡に戦いを挑んだ。民進党予備選は世論調査によって候補を決するが、蔡執行部は予備選の実施を数回、2カ月あまりにわたって延期。また世論調査の内容もサンプルに携帯電話の比率を上げるなど、蔡有利の条件に導いてなんとか頼を振り切った。
「蔡執行部のなりふり構わぬ頼つぶしが奏功しましたが、それでも蔡の再選には赤ランプが灯っていました。その苦境を救ったのは、中国の習近平が年初談話で台湾に対し一国二制度を提起したことと、香港特別行政区政府の逃亡犯引渡条例改訂に反対する民主派を中心とした市民が6月から繰り広げている大規模デモ、ストライキでした。大陸中国への嫌悪感と恐怖感から香港で騒乱の火が大きくなればなるほど、就任以来大陸に無視され、関係が途絶した蔡が打ち出さざるを得なかった対中対決姿勢が好感され、支持率が上がっていったのです」(台湾大手紙論説委員)
一国二制度はそもそも大陸が1981年、統一に向けて台湾に呼びかけたものだったが、当時の蒋経国・国民党政権はこれを無視。97年の香港返還に援用された。返還直後、アジア金融危機に見舞われた香港に対し、大陸は香港ドル買い支えを皮切りに香港経済救援に力を入れ、2003年には猛威を振るった伝染病、SARSによる経済落ち込み救済のため大陸観光客の自由旅行を解禁。
大陸のこうした香港支援策から当時、香港市民は一国二制度による大陸との関係を支持していたが、香港における大陸経済存在感の拡大と民主的な特区長官選挙が実現しなかったことから14年には雨傘運動が発生。対中感情は悪化に転じ、香港における国家反逆法の成立を目指して大陸が締め付けを強化したこともあって、昨年6月からの香港騒乱直前には過激派から「香港独立」の声が上がるほど、対中感情は悪化の一途をたどっている。香港騒乱は蔡にとって天祐、神風以外の何物でもなかったのである。
国民党の混迷
一方、統一地方選挙を圧勝し上げ潮に乗っていた最大野党国民党は4年ぶりの政権奪還が指呼の間にあったが、総統選候補をめぐって混迷を続ける。前総統の馬英九、前主席の朱立倫らが色気を見せては消え、シャープを買収した鴻海精密機械の総帥、郭台銘と一昨年11月の統一地方選挙で大番狂わせを演じた韓国瑜の一騎打ちとなった。国民党執行部は民進党と同じく予備選を世論調査に依拠。これに嫌気がさした郭は出馬を見送り、高雄市長選挙で大番狂わせを演じる前は国民党の中では端パイでしかなく、知名度も低かった韓が国民党候補の座を射止めるに至った。
韓は立法委員経験者ではあるが、国民党の中ではまったく存在感がなかった。有権者が唯一記憶しているとすれば、立法委員時代にこれも立法委員でのちに総統となる陳水扁を立法院内で殴り飛ばしたことくらいであろう。韓は民進党市政が20年続いていた高雄とはまったく縁もなく、勝算がまったくない中で落下傘候補、それも泡沫候補として高雄に送り込まれたが、その韓が民進党次代のホープと目されていた陳其邁を破る大番狂わせを演じてしまったのだ。
「韓は大陸への農産品輸出拡大、大陸観光客誘致拡大を訴え、また競馬解禁、ディズニーランド誘致など実現性に大いに疑問の残る公約を掲げ、民進党市政20年で困窮した高雄を豊かにしてみせると、わかりやすい言葉で有権者に訴えました。高雄は経済低迷の続く台湾の中でももっとも落ち込みが激しく、こうした公約は高雄市民の耳に入りやすかったのです。また、自らの禿頭にシャンプーする滑稽な動画をインターネットを通じて全台湾に配信しました。こうした選挙戦術が圧倒的な人気を集め、選挙戦終盤の集会には選挙区とは関係のない北部、中部などからも有権者が殺到。ポピュリスト中のポピュリストを演じた超ポピュリストの選挙戦術が大番狂わせを引き寄せました」(台湾大手テレビ記者)
韓は当選直後に香港、澳門、深圳を訪問。香港では中国共産党の出先機関である中央連絡弁公室まで訪問。大陸との密接な関係をアピールした。しかし、香港騒乱の後は大陸との近い関係が仇となる。韓は高雄市長選挙と同様、ポピュリズム全開の選挙戦術を展開しているが、“一国二制度恐怖症候群”に罹患した台湾世論は蔡に傾き、韓の支持率は低迷を続けている。台湾ではアナウンス効果への配慮から投票日10日前から世論調査を公表することが禁じられているが、直前の世論調査では蔡が韓を圧倒し、最大では30%以上リードしているデータも公表されている。
「反浸透法」とは
勢いに乗る蔡は公示を半月後に控えた11月27日、ダメ押しとばかりに新たな法案をぶち上げた。「反浸透法」である。
反浸透法は「海外敵対勢力による浸透(介入)を防ぐ」ことを目的とし、名指しこそ避けたが「海外敵対勢力」が中国を対象としていることは明らかである。浸透、介入工作の指示や資金援助を受けて選挙活動、政治献金、フェイクニュースの拡散などを実施した場合、5年以下の懲役などを科す、という内容である。
この法案提起の直前である11月24日、王立強と名乗る27歳の中国男性が自らが中国人民解放軍総参謀部配下のスパイとして香港で活動を続け、香港民主活動家への監視や嫌がらせ、反中書籍を出版していた銅鑼湾書店関係者の拉致に関与し、昨年11月の台湾統一地方選挙で野党国民党勝利のためにネット空間を中心にフェイクニュースを発信して世論工作を行い、総統選挙へも介入したと、オーストラリアのテレビ局のインタビューで語ったのである。
王は昨年4月、オーストラリア政府に亡命を求めたが、同政府は慎重に申し立てを審査し、いまだに亡命は認められていない。国民党情報関係者は王立強事件自体がフェイクニュースである可能性をも指摘する。
「亡命申請から半年以上過ぎてメディアに姿を現したことが極めて不可思議です。彼の証言は亡命認定に有利に働くよう相当誇大に粉飾している可能性が高い。その一方で、この法案提起は台湾の諜報戦の敗北を示すものでもあります。李登輝時代、台湾の密使がしばしば大陸を訪れ、1995~96年の台湾海峡危機に際してはミサイルが空砲である事実を事前に入手していました。情報漏洩を疑われた人民解放軍将軍は死刑になったほどです。
しかし、台湾の諜報機関は2000年に民進党の陳水扁が政権を握ってから一変しました。国民党と共産党は大陸時代から双子の政党といわれ、台湾の諜報機関は極めて似た組織である共産党内部に精通していましたが、その主力は一党独裁時代に育成された国民党員です。2000年以降、彼らは忠誠を誓う組織を失ってサボタージュを続け、また引退し、台湾の諜報能力は壊滅したのです」
蔡は王立強報道を奇貨として、すぐさま反浸透法を提起。反中感情の高まりを得票に結びつけようとした。しかし、敵対勢力を明らかにしていない法案は大陸に進出し、中国当局と日常的に接触している台湾企業経営者にとっては冤罪被害につながりかねず、恐慌を来たしている。総統候補者の討論では韓のみならず5度目の総統選出馬となった宋楚瑜も強く反対を表明。郭台銘も、法案が成立すれば国会に当たる立法会に押しかけざるを得ないと強く警告を発した。
「反浸透法は王というスパイもどきのフェイクニュースを反中感情の高まりという糖衣にくるんで得票に結びつける特効薬、と蔡は考えたのかもしれませんが、大陸で商売する台湾企業家からの得票に結びつかないばかりか、万が一投票日前にフェイクニュースであることが判明すれば、蔡の政治生命すら失いかねない両刃の剣です」と、台湾大手紙論説委員は反浸透法が必ずしも蔡有利に働かぬことを指摘し、そのゆくえに注目する。
もうひとつのフェイクニュース
蔡が反浸透法を提起して1週間もたたぬ12月2日、もうひとつのフェイクニュース事案が浮上した。台湾台北地検が公務員および官公署侮辱の容疑で男女2人を起訴したのだ。昨年9月、台風21号に襲われた関西国際空港に中国人旅客を中心にした約8000人が閉じ込められた際、中国駐大阪総領事館が自前で大型バスを仕立てて関空に横付けし中国旅客を優先的に救出したのにもかかわらず、台湾の大阪総領事館に相当する台北駐大阪経済文化弁事処は何もしなかったという未確認情報が台湾のネット空間にあふれた。
その後、中国総領事館が仕立てた大型バスは関空に入港することができず、未確認情報は事実でなかったことが判明するのだが、それが明らかになる前に、フェイクニュースを元に責任を台湾官民両方から追及された弁事処長、蘇啓誠は自死の道を選んでしまった。蔡政権は蘇の自死は大陸発のフェイクニュースが原因であるとし、台湾ではこれが定着して1年以上がたっていた。
しかし、蘇を自死に追い詰めた「弁事処は何もしなかった」という情報は駐日大使に相当する台北駐日経済文化代表処代表、謝長廷が08年総統選挙に挑戦して敗れた際のネット担当参謀で「卡神(カードの神様)」との異名をとるネットの達人、楊蕙如とその配下の男、蔡明福が発信したフェイクニュースであると台北地検が認定、起訴したのである。台湾メディアは楊女と蔡男は蔡率いる民進党から工作費をもらった上でネット空間での広報宣伝、それも政敵に対する根拠のないネガティブキャンペーンを引き受けていたと報じる。
「この起訴の深刻さは、王立強事件をはるかに上回るものがあります。大陸発のフェイクニュースが蘇を死に追い詰めたという蔡政権の言い分がフェイクニュースだったと台北地検が断定したのですから。そして、フェイクニュースを発信していたネット、サイバー軍団が民進党配下だとしてもいます。大陸との対立を演出すれば得票につながると進めてきた蔡の選挙戦術が根底からすべて覆されることにもつながりかねません。
国民党、親民党は候補者討論などで反浸透法とともにこれを取り上げて蔡を攻撃。メディアも大きく報道していますが、注目は初公判がいつになるか、その一点です。台湾では起訴から初公判まで早ければ半月あまり、長くても3カ月以内。通常であれば1カ月程度です。12月2日起訴ですから、投開票日の1月11日前に初公判を迎え、起訴状朗読で民進党とフェイクニュース発信の全貌が明らかになります。そうなったら、蔡の再選戦略そのものがフェイクニュースだったということになります」
台湾大手テレビ記者は2つのフェイクニュース事案に加え、総統選挙と同時に行われる立法院選挙に注目しなければならないと指摘する。蔡率いる民進党は前回16年立法院選挙で初めて過半数を制し「完全執政」を実現した。しかし、総統就任時の公約だった年金、司法改革などは遅々として進まず、蔡政権の執政能力には有権者の多くが疑問を投げかけ、それが一昨年11月の統一地方選挙でも惨敗につながった。
蔡英文再選でもレイムダックに
今回の立法院選挙には、民進党と国民党候補に加えて新たなプレイヤーが2人加わった。抜群の人気を誇る台北市長、柯文哲と国民党総統候補を断念した郭台銘の2人である。
陳水扁後援会幹部を務めたことで医学界から政界に転じた柯は、もともと民進党系の人間だった。しかし、統一地方選挙を前に蔡は柯が自らの挑戦者となって総統選挙に立候補することを恐れ、周囲が反対するにもかかわらず自らの腹心を台北市長選挙に刺客として送り込んだ。このため、民進党票は柯と刺客とが分け合うこととなり、国民党候補を僅差で振り切った柯が台北市長再選を果たした。しかし、柯には蔡憎しの思いが募り、今回は総統選挙立候補を見送ったものの、次回24年総統選挙立候補の意向をすでに明らかにし、その橋頭堡として台湾民衆党を結成。立法院に候補者を立てた。
また、国民党からの総統選挙を断念した郭も、選挙戦が始まってから立候補しなかったことを何よりも後悔すると表明。親民党候補を中心に12人を強く後押しして「郭家軍」を結成すると立法院選挙に参入した。
「蔡が総統に再選されたとしても、民進党が113議席の過半数を制するのは厳しい状況です。総統選挙はイメージ戦略優先、たとえて言えば空中戦ですが、地上戦、歩兵戦である立法院選挙には一昨年11月の統一地方選挙の民意、直前の民意が強く反映される。国民党、民衆党、親民党に郭の4者はいまだに足並みを揃えるには至っていませんが、3者には反蔡、反民進党が通底しています。反蔡連合を立法院で組織して過半を制すれば、蔡率いる民進党が提出する法案はすべて否決されることになる。総統再選の瞬間にレイムダックとならざるを得ないのです」(台湾大手紙論説委員)
日本では蔡の奏でるにぎやかな反中姿勢ばかりが総統選挙の基調として伝えられているが、総統選挙を前に浮上した2つのフェイクニュースという時限爆弾が選挙戦の最中に炸裂するのかどうか。また、同時に行われる立法院選挙が蔡ばかりか台湾の明日の死命を制することに注目しなければ、2020年台湾総統選挙の本質は見えてこない。
(文=甘粕代三/ライター)