電車内の痴漢で捕まりそうになり、線路へ飛び降りて逃走。おかげで電車がストップし、多数の乗客が大迷惑――。そんな事件がときどき報道される。「ふざけるな!」と怒り心頭の方が多いだろう。何を考えて線路へ逃げるのか。捕まったらどうなるのか。
そういう事件の裁判を私は傍聴したことがある。事件名は「迷惑条例違反、威力業務妨害」だった。ちなみに「迷惑条例」は略称で、都道府県によって条例名は少し異なる。
被告人は黒スーツにネクタイ姿の中年男性だ。妻子あり。男性は午前8時頃、満員電車内で女子中学生(13歳)のスカートの上から臀部を触り、スカートをまくり上げて下着の上から陰部を4、5回揉んだのだという。
なぜそんなことをしたのか。検察官が被告人の調書を読み上げた。以下、メモしきれなかったところは「…」でつなぐ。
調書「性癖…中学生、高校生…女の子に興味がある…被害者を見て、おとなしそうな子なので…」
私は痴漢の裁判もだいぶ傍聴してきた。痴漢男はほぼすべて「好みのタイプ」の女性や「おとなしそう」な女性を狙う。逆にいえば、好みではないタイプや気が強そうな女性は相手にしないようだ。情状証人は被告人の妻だった。今回は離婚しないが「私もこれが最後だと思って…」と暗く述べた。尋問が終わって妻は傍聴席へ戻り、続いて被告人質問が始まった。
弁護人「線路内に飛び降りた…なぜですか?」
被告人「もう、あの、過去の…捕まったらもう終わりだなと…会社も徐々に大きくなっていたので、捕まったら終わりだと思って、ただただ逃げてしまいました」
弁護人「(鉄道会社と乗客に)大きな迷惑を…」
被告人「半分パニックになっていて、追いかけられて目の前が線路だったので、ただただ逃げました」
欲望のままに痴漢し、捕まりそうになればただただ逃げる、目先のことに強く集中するタイプともいえる。
弁護人「逃げればいいと、聞いたんですか?」
被告人「知り合いの、弁護士さん、テレビ、とか…痴漢と間違えられたら、逃げなさいって、ま、そのことを、真に受けてしまって…」
一般論として、もし無実でも痴漢の疑いをかけられたら、無罪が認められる可能性は低い。逃げたとしても、あらゆる場所に防犯カメラがあり、逃げのびられる可能性も低いうえ、線路へ逃げれば「威力業務妨害」の罪が加わる。
このあたりで、傍聴席にいた妻が廊下へ出て、その後、戻らなかった。
被害を受ける女性が人格のある人間とは想像もしない痴漢犯
被告人質問は続いた。被告人は複数の会社を経営しており、売上は年間1億円以上あったという。仕事では有能だったようだ。
弁護人「本件後、どうなりましたか?」
被告人「今は、月に20万円、いかないくらい…」
弁護人「なぜそこまで落ち込んでしまったのですか?」
被告人「今回の件…(実名報道され)…事業自体が、紹介、信用で回っていたので…」
弁護人「借金があるのですか?」
被告人「月50万円、返済があります…ここまで影響が出るとは、考えられませんでした…」
この事件は、被告人が線路を走って逃げ去る動画とともにテレビで報道された。しかし今、被告人氏名でネット検索しても報道記事はヒットしない。ヒットするのは、いわゆるトレンドブログだ。被告人の氏名をタイトルの冒頭に大きく掲げ、個人情報を暴いてネットリンチをあおり、ページビューを稼いで広告収入を得ようとする匿名サイトばかりが大量にヒットする。実名報道された色情事件はみなそうだ。被告人がいくら更生を誓っても、氏名を変えなければ再起できないのではないか。
検察官「痴漢をする前に、もし捕まったらとか考えなかったのですか?」
被告人「そうですね、考えてませんでした」
検察官「被害者がおとなしそうだから大丈夫と?」
被告人「……」
検察官「被害者は、あまりに執拗に触ってくるからヤメてくださいと声を…」
被告人「…覚えてません」
検察官「被害者が、涙をためて震えていたことは?」
被告人「…見てません」
自己の欲望のみに突き動かされ、被害を受ける女性が人格のある人間とは想像もしない。多くの性犯罪に共通するように思われる。求刑は懲役1年だった。次回判決。相場的に間違いなく執行猶予が付くだろう。
審理が終わって廊下へ出ると、重く沈んだ様子で被告人の妻が独りぽつんといた。