謹賀新年。
今年は丑年、十二支の2番目に当たる。この「丑」とはウシを指すが、もともとは手指に固く力を入れてひねる様子をかたどった象形文字であり、芽が種子の中に生じて、まだ伸びることができない状態を表したとも言われている。相場格言に「丑はつまずき」とあり、経済的には下落の1年となるかもしれないとの声も聞くところである。
また、今年の干支は「辛丑」となる。本来、「干支」とは「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十干と「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二支を組み合わせたものである。同じ「干支」は60年に一度めぐってくることになり、60歳を「還暦」と称するのは、生まれた干支が再びめぐってくるためである。
新体制への胎動と改革の数々
さて、それでは「辛丑」とはどのような年になるのであろうか。試みに、過去の歴史から、その傾向を探って本年の動きを占ってみよう。
まず想起されるのは、新体制への胎動が見られる点である。旧来のあり方から脱却し、新体制への移行がなされようとしている。たとえば、581年に隋が北周の皇帝から禅譲を受けて建国している。また、「朕は国家なり」の言葉で有名なルイ14世が親政を開始したのは1661年、辛丑の年に当たる。
我が国においても、大宝元年(701年)に大宝律令が制定され、律令国家形成への道を歩み始めている。慶長6年(1601年)には徳川家康が大坂城より伏見城へと居を移し、東海道に伝馬制を設けると共に、佐渡銀山の直轄支配、伏見銀座の設立など、全国統治への基盤を固め始めている。
また、それは旧時代の支配者の退場と共に始まる。治承5年(1181年)に平清盛が熱病により死去。死因についてはマラリアではないかと言われる一方、感染症の疑いありとする指摘も存在し、これが正しいとすれば現代を生きる我々にとっても他人事ではない。この清盛の死によって、栄華を極めた平氏の没落が始まるのである。
天文10年(1541年)には武田晴信(信玄)が父・信虎を駿河に追放し、家督を相続している。甲斐国人らの推戴により、晴信は国主として戦国の世に挑むことになる。同年には、毛利元就が郡山合戦によって尼子詮久(晴久)を破り、安芸国より尼子氏の勢力を駆逐することに成功している。毛利氏の雄飛への端緒となる一戦であった。『平家物語』の筆を借りるならば「猛き者も遂には滅びぬ」へと至る、終わりの始まりを見ることができるかもしれない。
さらに、新体制は数々の改革を伴う。享保6年(1721年)、徳川吉宗は「享保の改革」の一環として民の意見を徴する「目安箱」を設置し、「小石川御薬園」の拡張が行われた。この2つの施策は、2年後に貧しい病人のための療養施設である「小石川養生所」の設立へとつながっていくことになる。
一方で、天保12年(1841年)、大御所・徳川家斉の死去に伴い、水野忠邦による「天保の改革」が本格化する。農本主義的な思想と厳しい奢侈の禁止はデフレ経済を招来すると共に、町人文化の発展に歯止めをかけたとも言われている。今年、何らかの「改革」が行われるとして、それが果たして、いずれの性格を有するものであるのか、注視したいところである。
いずれにせよ、昨年からのCOVID-19の流行により、我々の社会は大きな変化を余儀なくされた。その中で新たな生活様式のあり方が模索され続けており、それは今年も引き続き行われるであろう。その点において、政治体制もまたこれと無縁ではいられまい。我が国と、そこに住む人々が大いなる“陣痛”を経験する年となるような気がしてならない。
甚大な台風被害も、学びが花開く辛丑
こうなってくると心配になるのは、天災である。辛丑の年に見られるそれとしては、台風被害が挙げられる。保安2年(1121年)には台風が伊勢・伊賀を襲い、甚大な被害を出している。また、昭和36年(1961年)には第2室戸台風が日本本土を直撃、紀伊水道をすり抜けるようなコースを取ったため、京阪神地区の被害大なるものがあった。もちろん、他の災害について油断してよいということではないが、今年は特に台風に備えて、普段から備えを行うようにしておきたい。
辛丑は新たな学びの機会が生まれる年でもあるようだ。弘仁12年(821年)は藤原冬嗣が勧学院を、元慶5年(881年)には在原行平が奨学院を創立している。これらは「大学別曹」と呼ばれた貴族子弟のための学問所であり、その運営は各氏族から与えられた資金によって賄われた。
また、天保12年(1841年)には水戸藩が藩校「弘道館」を設置、藩士子弟の教育に当たっている。これもまた、水戸藩の財政より運営費が出されていることはいうまでもあるまい。すなわち、これらは官立というよりは民間の力によって生まれた学びの場であるといってよいだろう。このような私学的な教育が、たとえばインターネット上において盛んになるかもしれない。
また、学びといえば、偉大な研究が結実を見る年でもある。天明元年(1781年)にイマヌエル・カントの『純粋理性批判』が発刊され、同年に中国において史上最大の漢籍叢書となる『四庫全書』が完成を見ている。明治34年(1901年)には高峰譲吉がアドレナリンの製法の特許を取得、同年にグリエルモ・マルコーニが大西洋を横断した無線通信に成功している。
さらに、昭和36年(1961年)には、人類初の有人人工衛星「ボストーク1号」がユーリ・ガガーリン飛行士を乗せて地球を周回した。これもまた、偉大な研究の結実と言わねばならないだろう。
社会の学問の有用性への疑問視が顕著であり、その環境が厳しいものになっている昨今において、果たしてこれらのような偉大な研究成果が得られるかについては甚だ心許ないところではあるが、このようなときだからこそ、何かと思わずにはいられない。
さて、歴史から「辛丑」の年を占ってみたが、いかがだったであろうか。蛇足ながら、「一休さん」でおなじみの一休宗純が死去したのも辛丑の文明13年(1481年)であり、その死に際して「心配するな、なんとかなる」と遺文をのこしたとの逸話がある。個人的には、その名より「一」を借り受けて、「辛い」丑の年を「幸い」な丑の年となすような頓智をひねりだし、何とかしていきたい。
当たるも八卦、当たらぬも八卦。読者諸氏において、発展の年となる一助となれば何よりである。
(文=井戸恵午/ライター)