富士山の麓と5合目がもし鉄道で結ばれたら――。
山梨県の有識者検討会(会長・御手洗冨士夫経団連名誉会長)は今年2月、夢のようなプロジェクト実現に向けた構想をまとめた。過去にも浮かんでは消えるといったことを繰り返した鉄道構想は一歩前進。しかし、同県と富士北麓の大企業である富士急行との対立激化により、構想に赤信号がともり始めそうだ。
富士急社長「構想に反対」
富士山周辺の自治体や企業などが加盟する富士五湖観光連盟の会長を務める堀内光一郎・富士急行社長は、5月21日に山梨県富士吉田市で開かれた連盟の総会で、「推進には反対する」との意向を示した。連盟は鉄道を推進する立場のはずだが、一体何が起きているのか。
登山鉄道構想に対する堀内社長の考え方を整理するため、毎日新聞電子版の5月21日の記事を一部引用する。
<連盟は2015年に、登山鉄道整備を推進する報告書をまとめていたが、堀内会長は当時と状況が変わったとした上で「構想の理念、方向性、なんのために富士登山鉄道をやるのかが不明確だ」と述べた。構想を巡っては富士吉田市なども反対しており、県と地元との溝が深まっている。
「限られた裕福な方々だけが富士山に行くことができ、富士山・富士五湖観光にとって悪い方向に向かっている」と反対する姿勢を示した。
連盟が事務局を務めた「世界遺産 富士山の環境と観光のあり方検討会報告書(15年)では、環境保全などを考慮した交通手段として「鉄道が最も適している」としていた。堀内会長は、当時は環境負荷が少ない電気自動車(EV)の実用も具体化しておらず、今年3月にあった富士山ハザードマップの改定や、同じ月に発生した雪崩で、ふもとと5合目を結ぶ有料道路「富士スバルライン」が閉鎖されたことなど、新たな課題が生じたことも指摘した。富士吉田市の堀内茂市長も「富士登山鉄道は必要と感じていない」と従来通り構想への反対意見を述べた」>
堀内社長は、有識者検討会が鉄道の往復運賃1万円とのモデルを提示したことや、環境負荷軽減、防災対策などに疑問を投げかけた格好だが、こうした反対理由を額面通りには受け止める向きは少ない。ある山梨県政界関係者は「県有地問題をめぐる県と富士急の泥沼化した対立がなければ、話はスムースにいった」と指摘する。
県有地問題で法廷闘争
県有地の賃料をめぐる両者のいざこざは現在、法廷闘争に発展している。富士急は富士山周辺の県有地440ヘクタールを借り受け、別荘などに開発しており、年間賃料は約3億円。県はこれを約20億円に引き上げることが妥当との見解を示し、現在の賃貸借契約は無効としている。これに対し、同社は契約の有効性の確認を求めて甲府地裁に提訴した。
一方、県は同社が起こした訴訟に対し、損害賠償など計約92億円を求めて反訴する意向を表明した。県民の財産を有効活用し、適正価格を算定することは行政の重要な責務だが、そもそも論として、年間賃料を20億円に設定することには疑問の声が県内でも多い。山梨県の財界関係者は「二束三文の土地に富士急行が手を加え、付加価値を生み出しているにもかかわらず、県の対応はおかしい」と批判する。
富士急と犬猿の仲の長崎幸太郎知事は当サイトの5月19日付インタビュー記事で、県の魅力を磨き上げるため同社も含め、企業や地域が潤う社会を築いていく意向を表明。その上で、「富士急さんと一緒に、山梨に新しい時代を拓いていきますよ」と述べているものの、対立が深まっているため、今後の展望が見えない。
整備費1400億円
検討会がまとめた構想によると、整備費は総額1400億円程度に上る見通し。前提条件として、事業主体は行政ではなく、民間事業者とすることなどを挙げている。具体的な事業者名への言及はないが、JR東日本やJR東海、富士急などが何らかの形で関与することになるのは、想像に難くない。
富士急は富士北麓で、絶叫マシンで知られるテーマパーク「富士急ハイランド」に加え、ホテルや鉄道、バスを運営するなど富士山観光とは欠かせない唯一無二の存在だ。同社や県は建前上、県有地問題と登山鉄道は別の問題と主張するかもしれないが、対立が解消しなければ、話は進まない。
もっとも、富士山の地元では、構想そのものに慎重論が根強くあり、理解は得られていないのが現状だ。構想では環境や景観に配慮し、有料道路「富士スバルライン」の上に、次世代型路面電車(LRT)を敷くことが望ましいとしている。一方、開発行為自体が神聖な富士山を傷つけることになるとの見方もある。
登山鉄道は不要
一部報道などによると、富士吉田市の堀内茂市長は「富士山は信仰の山で傷つけたくない。地元にとって必要性を感じていない」と構想を一喝する。県はLRTが脱炭素に貢献するとしているが、堀内市長は登山シーズン中のマイカー規制や電気バスが普及しつつあることを念頭に置き、「開発で負荷をかけなくても排ガスは抑制できるのでないか」と主張している。
富士山はこれまでも環境問題と常に隣り合わせだった。富士山では登山者がごみを捨て、人目が届かない青木ヶ原樹海には産業廃棄物が大量に投棄されるなど、地元を悩まし続けてきた。1990年代には世界自然遺産への登録を目指す動きがあったものの、ごみ問題がネックとなり、国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産センターへの推薦を断念した。
ただ、富士山は古くから山岳信仰を象徴する山であることに加え、浮世絵などにもたびたび登場するなど芸術的な側面に着目した結果、2013年には文化遺産として世界遺産に登録された。
登山道に多大な圧力
多い年だと、30万人の登山者が富士山に訪れる。ユネスコの諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が世界遺産登録を勧告した際、「登山道や山小屋に多大な圧力をかけている」と懸念を表明。来訪者管理や保全対策の徹底を求めた。
世界文化遺産となった13年は約31万人に達したが、その後は減少傾向が続き、18年は約20万人まで落ち込んだ。20年はコロナ禍に伴い山開きが見送られたものの、ワクチンの普及が進めば、30万人台に到達する可能性があるため、入山者の抑制が再び課題となりそうだ。
LRTが開通すれば、マイカーやタクシーなどは通行が規制されるため、登山道の混雑緩和や安全性の担保に加え、イコモスからの宿題に応えられる。なおかつ、脱炭素化にも貢献でき、グレードの高い観光地に仕上げられる。県はそうした筋書きを立てて、LRTの必要性を強調する。
浮かんでは消えた構想
実はこれまでも鉄道構想は過去に何度も浮上した。例えば、1960年代には山頂までケーブルカーを通す案があったが、自然保護に配慮し、断念した。
県は今回の検討会に政財界も巻き込んでおり、一種の国家プロジェクトといえよう。浮かんでは消えてきた過去の歴史を振り返れば、構想を仕上げたこと自体は大きな前進だ。とはいえ、雪崩発生時の安全性の確保や、噴火に備えた避難ルート確保など必要な検討が山積している。文化財保護法や自然公園法など関係法令が壁として立ちはだかり、認可や許可にも相当な時間がかかるとみられる。
何よりも、富士山が位置する静岡県も含めた地元と対話を重ね、合意形成を図らなければ、事業は暗礁に乗り上げてしまう。
(文=編集部)