東京五輪、給与10分の1だった54年前の「輝きを再び」は幻想にすぎない
社会の進歩は相乗的に加速していくので、折り返し点といっても、実際には助走が終わりアクセルを目いっぱいふかし始めた時期だ。国内総生産(名目)は2ケタ成長が続いていたが、経済力の規模はまだ現在の20分の1程度。輸出は30分の1以下。わざわざ日本を訪れるインバウンド観光客など、ほとんどいなかった。
それでも、未来は明るく輝いていた。その最大の理由は、人口が増え続けていたからだ。23区ではすでにドーナツ化が始まり出していたものの、東京圏(1都3県)の1960~1965年の人口増加率は全国平均の3倍以上。にもかかわらず、「一極集中だ」と東京が目の敵にされなかったのは、日本全体が右肩上がりにあったからにほかならない。
当時の人口増加を支えていたのは、いうまでもなく高い合計特殊出生率(15~49歳までの女性の年齢別出生率の合計、ひとりの女性が生涯に産む子どもの数。以下、出生率)にある。人口が増えも減りもしないボーダーライン(我が国では、おおむね2.1)を出生率が継続して下回るようになるのは1974年以降。まだ10年先のことだ。
今日、我が国に黒い影を落とす高齢化率(65歳以上人口の割合)は、現在の4分の1以下。75歳以上の人口の割合を示す後期高齢化率は1%台。その背景には、平均寿命が男性で68歳、女性でも73歳という事実があった。当時の75歳以上は、今でいうなら90代のご長寿という感覚だろうか。良い悪いではなく、そんな時代だったのだ。
これまた現在の価値観に照らせばいろいろ意見もあるだろうが、当時の我が国を支えたパワーの源に「家族の力」があったことも否定できない。現在、全国平均で25~44歳の女性の3人に1人は結婚していないが、当時の同じ世代の未婚率は約1割。今や世帯構成の中で最大勢力を誇るひとり暮らしも、きわめてマイナーな存在にすぎなかった。
貧しさのなかにも夢と希望があふれていた
人々の暮らしはどうだったのだろうか。給与はおよそ10分の1。物価は4~5分の1で、物価と給与を対比した生活水準は今の半分程度。ただし、公共料金は安く、山手線の初乗り運賃は10円、都バスは15円だった。
現在は460円する東京の銭湯料金は33円、洗髪しなければ23円。「住宅・土地統計調査」(当時は「住宅統計調査」)による当時の東京都の内風呂普及率は40%程度だったから、銭湯は日々の生活に欠かせない存在だった。
『なぜか惹かれる足立区~東京23区「最下位」からの下剋上~』 治安が悪い、学力が低い、ヤンキーが多い……など、何かとマイナスイメージを持たれやすい足立区。しかし近年は家賃のお手傾感や物価の安さが注目を浴び、「穴場」としてテレビ番組に取り上げられることが多く、再開発の進む北千住は「住みたい街ランキング」の上位に浮上。一体足立に何が起きているのか? 人々は足立のどこに惹かれているのか? 23区研究のパイオニアで、ベストセラーとなった『23区格差』の著者があらゆるデータを用いて徹底分析してみたら、足立に東京の未来を読み解くヒントが隠されていた!