論文「1980年代イスラエルの戦略」の存在
ボリン氏が著書『テロとの戦い-中東支配の陰謀』で説くところによれば、テロとの戦いの起源は1977年にさかのぼる。同年、イスラエルではシオニスト(ユダヤ民族主義者)のメヘナム・ベギン氏率いる右派政党、リクード党が総選挙で43議席を獲得し、最大与党となる。
首相となったベギン氏は筋金入りのテロリストとして知られた。1946年7月には武装組織イルグンの指導者として、英軍総司令部のあったエルサレムのキング・デービッド・ホテル爆破を命じ、政府職員や事務員、従業員など91人を殺害。1948年4月には中立を表明していたパレスチナ人の村で無抵抗の男女、子供100人以上を無差別に虐殺するデイル・ヤシン事件を起こす。
1979年7月、ベギン首相が議長を務め、エルサレムで国際テロ活動に関する3日間の会議が開催される。主催はベンヤミン・ネタニヤフ氏(現首相)らが設立した調査機関、ネタニヤフ研究所。ボリン氏によれば、この研究所はテロとの戦いの思想普及を目的とする。会議にはイスラエル軍事情報局の元トップ4人が出席しており、同国の軍事情報当局がテロとの戦いの思想を広める計画と準備にかかわっていたことをうかがわせる。
1979年9月、イスラエルの情報機関モサドの元トップ、イサー・ハレル氏が2001年の同時テロを異様なほど正確に予言する。アラブ人のテロリストがニューヨークの一番高いビルを攻撃するだろうと述べたのである。ハレル氏は米国のシオニスト、マイケル・エバンス氏に対し「ニューヨークは自由と資本主義の象徴だ。彼ら(アラブ人テロリスト)が米国で一番高く力の象徴であるエンパイアステートビル(米国一高いとはハレル氏の誤解)を攻撃する可能性は高い」と話したという。
ハレル氏の予言から8年後の1987年、モサドの工作員2人が世界貿易センター、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社と警備契約を結ぶ。警備会社の社長が偽名を使い、パレスチナ人2人の殺害によりイスラエルで有罪判決を受けていたことが判明し、港湾公社は契約を破棄する。
1982年2月、論文「1980年代イスラエルの戦略」が世界シオニスト機構から出版される。筆者はイスラエル外務省の元高官とされるオディド・イノン氏という人物。通称「イノン計画」と呼ばれるこの論文は、アラブ諸国の「バルカン化」、つまり1990年代の旧ユーゴスラビアのように、多くの民族が互いに対立するような小さな地域・国家に分裂させるよう唱える。