朝日新聞凋落の戦犯をジャーナリズム大賞選考委員にした早稲田の見識
選考委員のルポライター鎌田慧氏は「『客観報道の罠』を脱し、自分でテーマを決めた、独自な視点からの取材対象への果敢なアプローチは、調査報道の奥行きを深めさせた」などと評している。
読者からの人気も高いため、休載期間があると、朝日新聞社に何百件もの「抗議」が入るという。すでに連載をまとめた単行本も出版され、10万部を超えるベストセラーになっている。9月に発表された新聞協会賞も受賞している。
社会部が潰そうとした「嫌われ者」
受賞者は取材チームを代表して朝日新聞社特別報道部の宮崎知己次長。筆者も朝日新聞記者時代、宮崎氏とは一緒に仕事をしたことがあり、凄腕記者なのは十分に知っているが、「変人」「頑固」などともいわれて、社内に「敵」も多い。取材チームのメンバーも朝日社内で評価が必ずしも高い人たちではない。当初、この企画自体が朝日社内では「嫌われ者」で、社会部などは潰しにかかっていたし、目立つ紙面を与えたくないと考えた幹部もいたようだ。しかも子会社の朝日新聞出版が書籍化を断ったため、学研から出版されている。不況の出版業界にとっては、喉から手が出るほど欲しいベストセラーであろうに。
この連載、社内政治やスクープによる評価というよりも、読者の支持によって開花したものといえる。ジャーナリズムの原点を感じる記事であり、新聞報道の凋落が指摘される中で、新聞が生き残るひとつの「解」を示したといってもいいのではないか。
ところで、この「早稲田ジャーナリズム大賞」でもうひとつ興味深いことがある。興味深いというよりも個人的に憤りを感じてしまった。それは、選考委員に元朝日新聞社長の箱島信一氏が選ばれていることだ。
箱島氏は、朝日のジャーナリズムを衰退させた「戦犯」の一人である。読者の中には忘れたか、知らない人もいるので、箱島氏がどんな人物かを紹介すると、朝日新聞社長時代に「武富士問題」を起こした張本人である。「武富士問題」とは、消費者金融から「週刊朝日」が多額の編集協力費をもらって記事を書こうとした話で、記事と広告の見境がなくなる風土をつくった経営者なのだ。
2002年、「AERA」が松下電器産業(当時)の批判記事を書いたことで、同社から朝日新聞への広告が全面的に止まったが、新聞1ページ分を使って同社の持ち上げ記事を書くことで「手打ち」として、広告を復活させてもらったことがある。当時、筆者は朝日新聞大阪経済部にいたので、こうした内実を知る立場にあった。私が記事を書いたわけではないが、「手打ち式」は京都の御茶屋で開かれて参加した。こうしたジャーナリズムを汚すような行為の背後には箱島氏の存在があった。
大企業を批判すると、経済部から追い出される?
箱島社長時代に企業に批判的な記事を書くことが敬遠され始めたことは事実である。取材よりもコスト管理が優先され、外部の媒体に執筆することの規制も始まった。物書きとしてよりも、サラリーマンとして生きることが求められるようになったというわけだ。後輩記者の中には、重要なスポンサー企業の批判記事を書いたことが遠因となって経済部から追い出された者もいた。取材力の弱体化が朝日新聞を襲ったが、その原因をつくったのが箱島氏なのである。