しかし、本来は選挙で信を問うべき重要なテーマが選挙前に封印されてしまった。一つは医療保険制度改革であり、もう一つは日本版ホワイトカラーエグゼンプション、いわゆる残業代ゼロ制度の導入だ。
解散風が吹き始めていた11月11日、厚生労働省は13日に予定していた医療保険改革試案の公表と、14日に予定していた社会保障制度審議会医療保険部会の審議を急遽中止した。同省の審議会のHPには「平成26年11月14日(金)に開催することを予定しておりましたが、開催を中止することといたしましたので、お知らせします」とあるだけで、その理由は記載されていない。
実は11日に厚労省幹部が自民党本部に出向いて改革案を説明したところ、選挙を意識した議員から高齢者の負担増に対する反発が相次いだことが中止の真相だ。
「矛先は、75歳以上の『後期高齢者医療制度』で、低所得者の保険料を軽減する特例の廃止案だった。最前列に陣取った厚労族の大物議員が口を開いた。『できるだけ慎重にやってください』。厚労省はこの案を含む『改革試案』の公表を2日後に予定していたが、急きょ見送った」(11月29日付朝日新聞より)
その後も審議会はストップし、今に至るまで改革案も公表されていない。医療保険制度改革は、高齢者に痛みを強いるというより、むしろ現役のサラリーマン世代に大きな負担を強いる改革である。国民医療費は毎年1兆円ずつ増え、今や40兆円。その6割を高齢者医療費が占める。審議会では、その対策を含めた医療保険制度改革について検討している最中だった。
高齢者医療制度改革、抜本的とは程遠く
そもそも今回の改革の発端は、社会保障制度改革国民会議の報告書(13年8月6日)を受けて昨年12月に成立した「持続可能な社会保障制度の確立を図るための改革の推進に関する法律」(プログラム法)だ。この法律で示された医療保険制度改革を厚労省の社会保障審議会で検討し、15年の通常国会に法案を提出する予定になっている。
制度改革では高齢者の保険料と自己負担のあり方も検討テーマに入っているが、その中身は高齢者医療制度の抜本的な改革にはほど遠い。プログラム法では後期高齢者支援金への全面総報酬割導入と被用者保険の標準報酬月額の引き上げといった高齢者医療費の拠出側の改革にとどまる。
高齢者医療制度には65~74歳の前期高齢者財政調整制度と75歳以上の後期高齢者医療制度の2つがある。前期高齢者は約1600万人。国民健康保険(国保)、全国健康保険協会(協会けんぽ)、健康保険組合(健保組合)、公務員の共済組合の4つの組織(保険者)があるが、そのうち1290万人が国保に集中し、医療費は他の3つの保険者が拠出する納付金で支えられている。
後期高齢者医療制度は4つの保険者の支援金と公費で賄われている。そのうちサラリーマンが加入する健保組合の保険料収入に対する前期と後期の制度への拠出比率は47.7%(14年度)と約半分を占めている。被保険者1人当たりの保険料は年間約46万円。そのうち半分の20万円強が高齢者医療に拠出されていることになる。
深刻な健保組合の財政
健保組合の財政も深刻だ。後期高齢者医療制度がスタートした08年度以降7年連続で経常赤字が続いている。赤字組合は927組合で、全1419組合の65%(13年度末)に当たる。赤字を回避するには唯一の収入源である保険料収入を増やすしかないが、当然保険料率を引き上げることになり、08年の7.4%(労使折半)から上昇し14年度は8.9%に達している。仮に10%を超えると、国の補助がある協会けんぽの保険料率より高くなる。そのため、健保組合を解散し、協会けんぽに移行した組合も多い。1994年度から14年度にかけて188の組合が解散している。すでに保険料率10%超えの組合も少なくはなく、その数は198組合に上る。11%を超えている組合が19もある(14年2月末現在)。
だが、経常赤字だからといって即解散するというわけではない。健保組合は個々に積立金を保有しており、保険料率の維持と義務的経費を支払うために積立金を取り崩している。経常赤字は繰り入れ分を除いた収支の赤字であり、積立金がある限り破綻することはない。しかし、07年度末に健保組合全体で2兆8000億円あった積立金も毎年3000億円程度取り崩され、14年度末の残高は1兆1000億円に減少すると推計されている。
健康保険組合連合会の幹部は、次のように指摘する。
「最低限の積立金として7000億円強は確保しておく必要があり、そうなると使える積立金は4000億円。維持できるのは2年程度だが、体力のある企業は保険料率を上げるか、最悪の場合は借金するしかない」
これに追い打ちをかけるのが、団塊の世代の高齢化だ。団塊世代全員が来年の15年度から65歳に達し、前期高齢者となる。14年の前期・後期の健保組合全体の拠出額は3兆4000億円だが、20年には3兆8800億円、25年は4兆4200億円になる(厚労省推計)。どのくらいの健保組合が生き残れるのか、生き残るにしても保険料率の上昇は避けられないだろう。
シルバー民主主義の弊害
一方の当事者である高齢者の負担はどうなっているのか。後期高齢者医療費約14兆円の高齢者の保険料は1.1兆円、実質7%程度にすぎない。1人当たりの月額保険料の平均は約5670円(基礎年金受給者は370円)と低い。加えて窓口負担は現役世代の一律3割に対し、75歳以上は1割負担。70~74歳については08年に2割負担が法律で決まっているが、与党の選挙対策もあり延長され、ようやく今年4月に70歳になる人から順次2割に移行していくことになった。もちろん貧困世帯もあるが、支払い能力の高い高齢者も多く、応分の負担による医療費抑制策も必要だ。
給与が伸びない中で、社会保険料などの法定福利費は着実に上昇している。現金給与総額に占める法定福利費は90年度の10%から12年度には14.4%に達している。年金保険料率は17年に18.3%(労使折半)で固定されることになっているが、健康保険料は歯止めなく上昇していく。保険料が早晩11%に達すると、年金保険料との合計で29.3%。従業員が半分の約15%を支払うので、月給30万円の人はこの2つだけで4万5000円も差し引かれることになる。
自分で使える手取額が低下していけば、なんのために働いているのかと働く意欲を失う人も出てくるかもしれない。政治家は選挙に勝てないので、高齢者に負担を求めることはしない。シルバー民主主義と揶揄されるゆえんであるが、このままでは現役世代の負担は膨れ上がるばかりだ。
残業代ゼロ制度
今回の選挙で議論が封印されたもう一つのテーマ、残業代ゼロ制度は、一定のホワイトカラー労働者について法律で定めている休憩・休息時間の付与、深夜労働、日曜・祝日労働などに関する労働時間規制の適用を外そうというものだ。運用されれば、時間外の割増賃金の支払い義務もなくなることになる。
1947年の労働基準法制定以来の大改正となる労働時間規制をなくすもので、こちらも法案の具体的制度設計について厚労省の審議会で検討を進め、15年に法案を提出する予定だ。この制度は第一次安倍政権下で導入が議論され、世論の批判を浴びて廃案になったが、第二次安倍政権下では成長戦略の労働改革の目玉として装いを変えて再浮上した(「日本再興戦略」改訂2014)。
ところが、11月17日を最後に審議会は開催されていない。本来は次の会議で具体的な対象者の議論を行う予定だった。おそらく労働者に不利益をもたらす法案の審議をしていることを世間に知られると、選挙に影響を与えると懸念したからだろう。
しかも成長戦略に掲げているのに、自民党の政権公約に一言も記載されていない。唯一、関係していると思われる箇所は、「それぞれの人生、生き方、生活を大切にする観点に立った多様な働き方や公正な処遇を実現し、働く方々が納得して働くことのできる労働環境の整備を進めます」という空疎な内容だけだ。おそらく選挙で信任を得た政権は、法案審議を一挙に加速してくることは間違いない。
保険料率のアップに加えて、残業代をはぎ取る法案の提出で、現役サラリーマンの懐はますます縮んでいく。一方で安倍政権は、法人税減税を公約に掲げ、それと引き換えに賃上げを求める姿勢を選挙で訴えている。たとえ、わずかな賃上げが実現できたとしても、サラリーマンが失う金額の比ではない。
(文=溝上憲文/労働ジャーナリスト)