今年死去なさったことが、いまだに信じられない。ただ、金子さんはさすがというべきか、著書『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(小学館)の原稿を生前に書き上げ、死後に発売しベストセラーにするという偉業をやってのけた。生前に金子さんとお会いするたびに「本が売れないんだよ」とおっしゃっていたけれど、最期を扱った本がベストセラーになるとは、あまりに皮肉すぎる。それが金子さんの仕掛けた壮大なジョークだとしたら、私はあまりに笑えない。
金子さんは、メディア出演の多忙さもあってか、ブログをあまり更新していなかった。しかし、TwitterとFacebookは異常なほどに更新・リプライを続けていた。その代わりに、金子さんの死後、やはり私と同じく金子さんの死を信じられない人びとからのメッセージが送られつづけている。金子さんはもはや読むことはできないのに、「遺作を読みました」と感想を綴るひとたちが絶えない。
金子さんの死去は、不幸以外の何物でもない。
しかし、と思うのだ。
サイバースペース上で自分を残すことによって、本人が意図しないにかかわらず、社会に影響を与える。金子さんは主婦目線から社会を読み解くことをライフワークとしていた。その金子さんの想いや遺志を、きっと金子さんはこれからの社会に訴え続けるだろう。少なくとも私は同業者として、その想いを受け取った。
●サイバースペースと実存
サーバー上に情報を載せ続けることで、死後も影響力を持つ「故」人について見てきた。ここから、ブログやらTwitterやらFacebookの宣伝効果、あるいは経済効果の高さについて述べる気はない。それではさすがに故人に非礼すぎる。
しかし、故人と残された人びとの関係が、ネット時代では変わりつつある事実に考察は重ねられてよい。もし、故人が死んだあとに、2日に1度のツイートを数十年にわたって配信予約していたら、そもそも他者にとって「死」の定義とはなんだろうか。あるいは、そもそも年に一度も会っていなかった親類が、ダイレクトメッセージや日本郵政のコンピュータ郵便を使って、定期的に死後もコンタクトしてきたとすれば。または、自己の動画をアラームセットしてYouTubeで流す人が出てきたとすれば。これまでの死と同じだろうか。
もちろん、現在はかつてのSNSの情報が残り続けているだけかもしれない。しかし、近い将来、積極的に死後の情報を管理する流行が生まれるだろう。
そのとき、僕たちの「死者」の定義はどう変わるだろうか。いや、そもそも他者は死ぬのだろうか。
マヤ文明のいうところの「世界の終末」っていうのは、もしかすると「これまでの死生観の終末」って意味だったのかもしれないとすら思うほどだ。
今年お亡くなりになった方へ。
合掌。
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