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安倍元首相銃撃事件に思う「世界を変える」「自分を救う」ための思考

文=沖田臥竜/作家
安倍元首相銃撃事件に思う「世界を変える」「自分を救う」ための思考の画像1
事件直後、SPに取り押さえられる山上徹也容疑者(写真は、筆者のもとに提供されたもの)

 別段、私は闇に潜んでいるわけではないが、仕事としては書くこと以外に、情報を扱う会社を運営している。そこで扱う情報は、客観的に見ても、鮮度、スピードいずれも国内では群を抜いているだろう。別にそれを誇示したいわけではない。実際にそれを評価してくれている人々がいるからこそ、ビジネスになっているという話なだけだ。

 だが、私は街の情報屋でも、SNS界隈の情報通ではない。では何かというと、それは来年には、ある形として、世間、そして世界へと伝えることになるだろう。

 7月8日午前。テレビ局の友人からのLINEの通知音がなった。そこからは、常日頃から親しくしているテレビ局、新聞社、出版社の知人から怒涛の如く連絡があり、さまざまな依頼を受けた。書くこと以外の仕事が動き出した。昼過ぎからはどうしても、外せない仕事があったので、それまでの仕事をすべてリスケさせ、現場の状況、動き、さまざまな角度や観点から、事態を把握することを急いだ。そう、まさかこの時まで、 安倍元首相が凶弾に倒れるなど誰が予想できただろうか。

 私自身も、かつて少なからず森友問題を取材し、さまざまな関係者に直接話を聞いたので、安倍元首相およびその周辺については無知というわけではない。新型コロナウイルスが日本に上陸し、世間を震撼させることになった安倍元首相のコロナ対策に対する世間の評価も把握している。だが、そこで生み出された世論や一部の熱狂的ともいえるマスメディア同様の熱量を持って取材にあたったかといえば、そうではなかった。どこかで無感情だった。よくいえば、客観的だっただろう。

 森友問題の関係者に会えば会うほど、気持ちが冷めていく感覚を覚えていた。それはひいては、安倍元首相を支持する側に対しても、批判する側に対しても、同じような感情を持つことになった。仕事として受けたからには、できる限り取材し調査し、その後も、誰かが困れば、それに連なる形で生じたイレギュラー的案件にも対応しただけで、根底にあるのは、森友問題の是非を問いたいという意識ではなかった。

 森友問題にかかわらず、私が動く案件のほとんどが、そういった思いや客観的なスタンスで臨んでいるところが大きい。だからこそ、私は信頼され、私だったらと耳を傾けてもらえる話があったりするのだと思う。

 信頼とは何か。私は一定の情報を惜しみなく共有するが、言うべきことではないと考えたことは、たとえ誰であったとしても、どんな条件を提示されても口にすることはない。もちろん私も生身の人間だ。そんな自分に手のひらを返す人間に対しては、「あれだけのことをやってあげたのに、裏切るようなことをして」と思うこともないわけではないが、だからといって、自分の中で分別をつけたことを、相手の対応次第で左右させるようなことはしない。それは相手がどうだという問題ではない。自分自身の問題だと思っているのだ。

目の前に広がるあなたの日常を生み出しているのは……

 何が言いたいかといえば、すべては自分自身の問題なのだ。他人にどう思われるかで判断するのではなく、自分自身はどうなのか。どう思うのか。卑怯なことをした自分、人を裏切った自分、ウソをついたり人を蔑めたりするようなことをする自分を、私は受け入れることができない。その考えは、政治というものに対しても変わりはしない。つまり、政治という外部的な条件によって、自分自身が抱える問題が本当に解決し、自分が見ている世界が根本的に変わることはないと思っているのである。

 例えば、恋愛についてはどうだろう。総理大臣が変わり、政治が変われば、恋愛感情を抱く異性に「嫌いだ」と言われている感情が自分自身の中で急に変わるのか。無茶苦茶な例えを言っているつもりはない。単純なことだ。法律という一定のルールがある民主主義国家の中でも、目の前に広がるあなたの日常を生み出しているのは、政治家でも誰でもなく、すべては自分が作った環境、もしくは自分を取り巻く環境なのだ。

 自分自身が一生懸命生きていかない限り、救われることも報われることもないという、私自身の根本的なイデオロギーは今も昔も変わることはない。自分が頑張りもせず、会ったこともない人間を憎んだり恨んだりできる感情が、そもそも私には理解しにくいのである。

 人は往々にして、憎しみや恨みを、妬みや嫉みに置き換えることもあるが、そうした感情は大抵の場合、嫉妬の対象には届いていない。

 もし、そのことを理解していれば、そうした蔑むべき感情を、例えばSNSなどで発信することができるだろうか。気づけていないからこそ、会ったことも話したこともない人間に対して、怒りや嫉妬を芽生えさせ、誹謗中傷を行い、相手の失敗に快楽を覚え、一喜一憂できるのだ。

 少なくとも私はたとえ誰であったとしも、私の目の前で直接不本意なことを言われれば黙ってはいないだろう。それは自信を持って言える。目の前で自分には受け入れがたい事象が起こったとしたら、自分自身でそれを変えにいくのだ。

 それが私の目に見えている、自分が生きている世界で、逆にいえば、それがすべてなのだ。だからこそ、これは考え方の違いだが、会ったことも話したこともない人間に、その世界を変えてもらおうという期待はできない。なので、短絡的な言い方すぎるかもしれないが、目の前の現実は変わらない限り、どうしても政治に関心を持つことができないのである。政治に自分の世界をよくしてもらうことを期待する前に、自分自身でよくするための努力を最大限行う。是非の問題ではなく、これは考え方の問題だ。

 ただ、そこに特定の思想が入り込めば、理屈ではない考えが存在してくるのは確かだ。思い込みや洗脳、かつて流行った言い方でいえばマインドコントロール……そういう思想には、理屈などではない感情や信仰心が存在している。極力、私自身はそういったものから距離をおいているが、困れば、心の中で願う気持ちはある。それを信仰心と似通った感情と言われてしまえば、そうかもしれない。だが、その感情をできるだけ、自分自身で客観的に捉えることが大事ではないか。

 安倍元首相を銃撃した犯人について、現在、親族に関わる宗教的な背景があったのではないかと囁かれている。ただ、それはもう本人、山上徹也にしかわからないことだ。山上ですら、そのすべての感情を言葉にするのは困難ではないだろうか。彼は何を考え、その目の前にはどんな世界や日常が広がっていたのか……。そして、まさか安倍元首相も見たことも聞いたこともない山上に、あの時間、あの場所で銃撃されるとは考えてもいなかっただろう。

 安倍元首相のことは私はテレビを通してしか見たことがない。今ではそのテレビすらほとんど見る機会が失われている。だが、私も日本国民として、安倍元首相が凶弾に倒れたことについて、虚無感しかない。

 安倍元首相の奥さんやそのほかの家族の方々、安倍元首相の盟友、岸田総理や菅前総理、麻生副総裁……親しかった人たちの胸中を思うと胸が締め付けられてしまう。それはやはり、私も日本という国のいち国民として生きているからだろう。

 私は物事のすべてのことについて、ある種の超越している感情を持っている。それは現在、誰しもが当たり前のように口にしているSPの警護の甘さについての言及や責任問題についてだ。いつの世も、たらればを論じるのは夢想にしか過ぎない。過ぎたことは戻らない。

 喪に服し、心よりご冥福をお祈りします。

 合掌。

(文=沖田臥竜/作家)

沖田臥竜/作家

沖田臥竜/作家

作家。2014年、アウトローだった自らの経験をもとに物書きとして活動を始め、小説やノンフィクションなど多数の作品を発表。小説『ムショぼけ』(小学館)や小説『インフォーマ』(サイゾー文芸部)はドラマ化もされ話題に。最新刊は『インフォーマ2 ヒット・アンド・アウェイ』(同)。調査やコンサルティングを行う企業の経営者の顔を持つ。

Twitter:@pinlkiai

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