口は大変面白く、同時に不思議な器官です。物を食べるだけではなく、攻撃をしたり、物を掴んだり、キスをしたりと、身体のなかでこれほど多目的な器官は、ほかにありません。
また、食べることだけを見ても、おかず、ごはん、みそ汁と、たくさんの食べ物を口いっぱいに放り込み、もぐもぐと咀嚼し、その中から食べ物に混じった髪の毛一本をより分けて出す。これこそが口の行う“神業”です。現代の科学の粋を集めたロボットでも、このような振る舞いはできません。これほど口は凄い器官なのです。
カナダの脳神経外科医のペンフィールド医師が、脳と全身とのつながりを研究しました。この研究から、口と手がもっとも脳とつながる神経の数が多いということがわかっています。ですから、口と手は、小さなことを敏感に感じると同時に、細かな運動もできるのです。口いっぱいの食べ物の中から髪の毛1本をより分けて出せるのも、これが理由です。
このとき一番大事なのは、全身の器官の中で、口と手がもっとも脳へ刺激を送ることのできる器官であるという事実です。つまり、口、手を意識してしっかり使うことが、脳へ効率的にたくさんの情報刺激を与える良い手段だということです。
このように咀嚼は、脳に多くの情報刺激を与える行為です。この「物を食べる」という咀嚼行為については、意外と古くから研究されてきました。今から25年前の1997年には、すでに咀嚼研究の祖ともいえる窪田金次郎先生(当時、東京医科歯科大学教授)らによって、『誰も気づかなかった噛む効用:咀嚼のサイエンス』という本が日本咀嚼学会編として出版されています。同書の見開きページには、ガムを嚙んだ時、どの年代の人の脳も血流量が増え、年齢によらず咀嚼によって脳の活性化が起こるというデータ写真が載っています。
その後、咀嚼研究はさらに進み、近年では意識した咀嚼回数や質の向上がより脳を活性化させ、特に高齢者で高まることがわかっています。
昔から、食べ物はよく噛んで食べることが大事だといわれてきましたが、これが意味するものは、消化を助けるということだけではなく、脳を活性化し、いわゆる脳を若く保ち、これが認知症予防をはじめ、さまざまな全身の健康増進につながるということです。
また、咀嚼によって精神を落ち着かせ、安定させる、セロトニンの分泌を高めることなどもわかり、うつ病などの予防の可能性も示しています。
このようなことから、近年、咀嚼の全身への影響に関心が集まってきています。
咀嚼が健康寿命を延ばす
ところが、現代は食べ物がどんどん軟らかくなってきており、昔に比べ、咀嚼回数が如実に減ってきています。戦前までは一食当たり1400回程の咀嚼回数でしたが、それから徐々に減り、現代では一食当たり620回まで減ってきています。昨今では、さらに軟食化が進み、ついには「ほうれん草が硬い」と言う子どもまで出現しているそうです。
このような咀嚼回数の激減により、現代人は脳の活性化が妨げられているといえます。咀嚼による脳の活性化と維持は、全身の健康に好影響を与え、なかでも認知症予防の第一歩となることに間違いはありません。それをいとも簡単に実現できるのが、毎日行う質の良い咀嚼なのです。
現在、日本の平均寿命は女性では90歳に届こうというところまで延びています。しかし、寿命が尽きる前の約10年間は「不健康期間」といわれ、程度の差はありますが介護なしの自立した生活ができない期間です。残念ながら、平均寿命は伸びてもこの期間は縮まっていません。
不健康期間は、身体が脆弱化する「フレイル」に陥ることから始まるといえます。このフレイルは、口腔機能の低下が第一の指標となることから、全身のフレイルと区別して「オーラル(口腔)フレイル」という分野を設け、口を衰えさせない取り組みが出てきました。この取り組みにより、寝たきりだった方が歩いて行動できるようになり、要介護4から2まで下がった例もあります。
日本の国民医療費の6割は不健康期間に費やされており、「口の健康」の回復・維持による不健康期間の短縮は、社会保障費の削減につながるでしょう。
このように、口はカラダの中心であり、咀嚼の充実をはじめとした「口の健康」を保つことが「すべての健康」の起点となるのです。
次回は、「歯周病と全身の関係」「糖尿病」「がん」などと「口の健康」の密接な関係についてお話ししたいと思います。
(文=林晋哉/歯科医師)
ここまでの話を中心に、「口の健康」がすべての健康の起点となる、ということについてまとめた拙書『歯、口、咀しゃくの健康医学』が出版されました。ご一読いただき、参考にしていただければ幸いです。