52歳でタッチタイピングを習得して実感、「遅くても始めてよかったこと」は多い
物事には、矛盾する考え方のどちらも正しいことがあります。近年、筆者がそれを身をもって感じたのは、スキル習得についてです。
タッチタイピング(パソコンのキーボードの文字刻印を見ないでタイプすること)を学ぶべく練習したのですが、その練習を始めるのがあまりに遅かったとも、決して遅くなかったとも思える体験をしたのです。
これまで取り組まなかった練習
筆者は現在52歳ですが、2年近くタッチタイピングの練習をして、現在ようやく「できるようになってきた」と実感しています。つまり、練習をはじめたのが50歳のときだったのですが、そのときは習得に2年間もかかるとは、まるで想像していませんでした。毎日少しずつ練習をしましたが、なかなか上達を感じられず、こんなに時間を要するものかと悩みながら継続していました。
読者のみなさんは、50歳で始めて、それから2年間ほぼ毎日(短時間ではあっても)練習を必要とするスキル習得と聞いて、どのように思われるでしょうか。
私もタイピングそのものは早くから日常的に行ってきました。10代の頃はホテルで予約受付のアルバイトをしており、電話予約を受け、手書きした予約票をコンピューターに打ち込む業務を担当していたのです。手書きの予約票は、社員の人たちが手書きしたものも含め、相当の量がありましたから、かなり速いスピードでタイピングする必要がありました。ただし、その際、私はまったくの我流でタイプしていたのです。
その後、私はアメリカの大学に留学しましたが、当時のアメリカの大学では(パーソナル・コンピューターがようやく普及しはじめたころでしたが、)提出物はタイプライターなどでタイプして作成するのが普通でした。そのため、やはりタイプは頻繁にすることになりましたが、私はこのときも我流でタイプをしていたのです。
大学を卒業し、現地で就職をしてから、その後日本に帰国してからも、日常的にコンピューターを使い、キーボードによる文字入力をしてきました。30代半ばからは、執筆の仕事もしてきましたから、どちらかといえば人より多くタイプしてきたほうだと思いますが、自分のタイピングのスキルは癖だらけで、決して褒められたものでないことをよくわかっていました。
そして、スピードは遅くありませんが、日本語でも英語でもキーボードの文字刻印を見ていないと、ほとんどまったくタイプできなかったのです。したがって暗い部屋ではタイプできませんでしたし、メモや資料を参照しながらタイプするときには、「メモや資料」「キーボードの文字刻印」「モニター画面」の3つを見ながら作業しなくてはいけないので、非常に面倒で不便を感じていたのです。
思ったよりも時間がかかるスキル改善
我流を貫いてできた癖はひどく、なぜそんなに左側にあるキーを右手の指でたたくのかといったことが(またその逆も)多く、きちんと学んだり、教わったりしていないことは明らかでした。
私は20年前には、すでにきちんと学んだほうがよいと感じていましたが、改善には取り組みませんでした。15年ほど前に一度、思い立って練習用ソフトを購入したこともありましたが、癖を直すのは思ったよりも難しく、使うのをやめてしまったことがあります。
2年前からは、ネットで見つけた無料の教材で日本語と英語の両方を練習しはじめました。実はこのときには、15年前に練習をはじめ、ほどなくしてギブアップしたことがあったものの、おそらく2週間も真面目にやれば、ある程度の成果が望めるだろうと考えていたのです。
しかし、2週間、3週間と続けても、なんら成果を感じることができず、2、3カ月続けても、タッチタイピングには、まだまだ程遠いものを感じていたのです。1年続けても、まだ何カ月かは練習が必要で、もし練習をやめたら、とたんにできなくなるだろうと思えていました。
いつもの練習用教材なら大丈夫でも、仕事でメールを書くときには、やはりキーボードを見てしまっていることにも悩みました。ともかくタッチタイピングのスキル習得に、こんなに時間がかかることが驚きでした。長年の我流タイピングの癖に邪魔されていたことは確かで、もっと早く矯正すればよかったと思わずにはいられませんでした。
そして2年近く経った現在、ようやくラクにタッチタイピングができるようになってきたと感じています。読者のみなさんは、こんなに時間がかかるスキル習得を50歳からはじめたいと思われるでしょうか。特にスキルを極めるというわけではなく、ある程度のスキル習得をするだけで、こんなに長い時間がかかってしまうのです。
あまり認めたくはありませんが、50代になった自分は、若い頃よりも習得のスピードが遅くなっているのかもしれません。大学生のころであれば、タイピングのクラスを1学期間でも受講すれば、あっという間にマスターできていたように思うのです。
私はこのスキル習得を若い頃にやっていればよかったと感じたのは本当です。しかしながら、苦労はしましたが、今回の取り組みは遅すぎはせず、習得した今では、やってよかったと感じています。
「年齢を重ねてから」がよかったケース
逆に、始めるのが遅くてもよかったと思える取り組みもあります。たとえば、この連載記事の執筆はその1つです。
私は文章を書く仕事は長くやってきていますが、それらの多くは英語学習教材の執筆で、日本語だけで連載記事を書くのは、これがはじめてだったのです。
連載記事の執筆は仕事として請け負わせていただいていますから、自分のためのタッチタイピングのスキルと同じように語るわけにはいきませんが、3年ほど前に、この連載記事のお話をいただいたときに、はじめに思ったのは、これは毎月よい頭の体操になるだろう、ということでした。
読者の方々のためによい記事を書くスキルを向上させようとすることは、かなり頭を使うことで、それが自分の50歳の頭を柔軟にしてくれるだろうと思えたのです。
こうした執筆の機会も、もっと早くからあれば、それはよかったのでしょうが、内容が自己啓発ということもあり、むしろ現在の年齢になってから取り組んでいることに意味を感じています。
「それは遅すぎる」と、はっきりわかることもある
スキル習得に限らず、多くのことに共通すると思いますが、何歳までが早い段階で、何歳からが遅いとは、決まっているものではありません。何に関しても、これをやるには自分は歳を取りすぎていると感じたら、おそらくそうなのでしょう。同じ50歳でも、まだこれからどんなスキルでも習得していける人と、それをやるには遅すぎる人の両方がいるように思います。
現在の私には、本業の経営コンサルティング以外の分野では、音楽関係の分野に知り合いが多くいます。その昔は、音楽の世界でプロを目指すことも考えていましたから、ミュージシャンやプロデューサー、曲づくりができる人たち、ボーカルトレーニングの講師など、多くの人を知っている今であれば、楽器を練習しなおすなどして、インディーズからCDを出すことくらいは難しいことではありません。
しかしこれに関しては、私は真剣に考えることもなく、自分には遅すぎると思えています。昔は相当にあこがれたものですが、現在の私は、実際にそうするには歳を取りすぎているのでしょう。
スキルの習得は、早く取り組むに越したことはありませんが、始めるのが遅くても大丈夫なことも多いものです。自分にはもう遅いと、はっきり思えてしまうこと以外なら、前向きに取り組んでみる価値はあるのではないでしょうか。いくつになっても、成果を得られたと実感できるのは嬉しいものです。
(文=松崎久純/グローバル人材育成専門家、サイドマン経営代表