猪木はかつて1989年の参院選で自ら立ち上げたスポーツ平和党(当時)から出馬し、初当選。湾岸戦争時にはイラクに渡って日本人人質の解放に尽力するという功績を残したものの、95年の参院選で落選。一期で追われるように議員を引退したのではなかったか。
「『国会に卍固め、消費税に延髄斬り』のキャッチフレーズで当選した猪木は国会ではなんの実績も残せずじまい、91年の都知事選の立候補を表明するもすぐに辞退、さらに女性議員秘書による税金未納告発などゴタゴタ続きでした。選挙の時の集票力だけが既成政党に強い印象を与え、それ以降、タレント議員、スポーツ議員が跋扈するきっかけとなったのです」(政治評論家)
当時、猪木の女性議員秘書の告発本『議員秘書、捨身の告白 永田町のアブナイ常識』(佐藤久美子著/講談社刊/1993年)には、有権者は知っておきたい猪木のダークな真実が描かれているのでいくつか紹介しよう。
●ダークな猪木その1:スポーツ平和党は自民党がスポンサーだった
そもそも猪木は89年、スポーツ平和党を立ち上げ参院選に立候補したが、もともと自民党は猪木が設立した新日本プロレスのコミッショナーを引き受けるなど、猪木との関係は深く、自民党とベッタリの関係だった。とくに森喜朗元首相は猪木を党が違うとはいえ、バックアップしていたという。
「(出馬表明直後の)6月22日、自民党の森喜朗先生が、淡い紫色の風呂敷に桐の箱を包んで持ってきました。中には帯封のある百万円の札束が十個入っていました。『選挙資金として、自由に使ってくれ』とのことだったと言います。それはいったん選対本部の金庫にしまわれましたが、いつの間にか丸ごと消えていました」(同書より引用)
結局、その金は猪木と猪木の兄が投資するブラジルのアントンハイセル(牧場)に消えてしまった。
猪木が当選後、スポーツ平和党は民社党と統一会派を組むことになった。その理由は、当時、民社党は参院9議席で院内交渉団体の資格を得るには1議席足りなかったことから、自民党の森氏からの「民社党を助けてくれないか」との頼みを受けたものだったという。
また、3年後の92年、元プロ野球選手・江本孟紀が参院選に当選しスポーツ平和党が2議席となった際には、民社党と再び統一会派を組むことの条件として、「猪木議員には1000万円、江本議員には300万円が手渡された」(同書より引用)。スポーツ平和党が選挙資金のために借金を抱えているというのに、猪木はその1000万円を自分のフトコロに入れようとしたのだ(新間寿同党幹事長に指摘され400万円を党に入れることに)。
●ダークな猪木その2:イラク人質解放には右翼団体も同行していた
90年には、湾岸戦争直前にイラクに渡って現地で拘束された日本人人質の解放に尽力するという功績を残しているが、もともとの動機は不純で「サダム・フセイン大統領と会ってオイルの権利を手に入れるためだった」(同書より引用)という。
それでも、90年にイラクへ訪問すること3回。12月には猪木の発案でプロレス、サッカー、コンサートを盛り込んだ「平和の祭典」を実施し、人質も解放されることになった。しかし、同書によれば、この時に右翼団体・日本皇民党の幹部が同行し、イラクへの航空機のチャーター代6500万円は佐川急便が払っていたというのだ。
「その後の一連の経過や関係者らの話から、(佐川急便の)佐川清会長が、皇民党の人たちとの同行を条件にチャーター機代を支払うという案を出したことは明らかです。かなり、あとのことですが、この件が問題化したとき、猪木議員自身が私にこんなボヤキをしていました。『皇民党のやつらを同行させるのが条件だったんだから、しかたがねえだろう』」(同書より引用)
この右翼団体は87年、当時の中曽根康弘首相から次期総裁の指名を受けようとする竹下登に対し、「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしましょう」と「ほめ殺し」の街宣を仕掛けた団体でもある。この処理のために、金丸信、小沢一郎ら竹下派幹部が東京佐川急便の渡辺広康社長に仲介を依頼し、広域暴力団・稲川会を通じて話をつけることになる(これらの事実は92年の東京佐川急便事件の公判で明らかになった)。一説にはこの「ほめ殺し」の街宣を指示したのは、竹下が裏切った田中角栄元首相と同じ郷里の新潟から出てきた佐川急便の佐川清会長ではないかと言われている。
なお、佐川会長はかつて新日本プロレスの大株主で、76年に日本武道館で行われた猪木vs.モハメド・アリ戦ではチケットを大量購入する関係だった。以来、猪木のビジネスに融資約17億円。債務保証が約13億円。スポーツ平和党の立ち上げ時にも1億円の融資を行うなどといった猪木の大スポンサーだった。