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ホンダ・河島元社長が死去〜功績から振り返る、「世界のホンダ」への波乱の軌跡

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「本田技研工業 HP」より
 本田技研工業ホンダ)の元社長で、日本の自動車メーカーとして初めて米国生産に乗り出した河島喜好氏が10月31日、肺炎のため85歳で死去。葬儀は近親者で営まれ、後日、ホンダ主催の「お別れの会」が開かれる。

 河島氏は浜松高等工業学校(現・静岡大工学部)卒業後に、1947年、本田技術研究所(現ホンダ)に入社。大卒相当の社員がいなかったことや「図面が引ける」という理由で本田宗一郎氏が採用を即決した。草創期のオートバイ「ドリームE型」に搭載された4ストロークエンジンの設計などに携わった。河島氏が引いた図面が気に入らないと、宗一郎氏は怒鳴り散らして破り捨て、スパナで殴ったこともあったという逸話が残る。

 大きなアドバルーンを上げて、その目標に向かって全力疾走するのが宗一郎流だ。1954年、二輪車のオリンピックといわれた「英マン島TTレース」への出場を宣言した際は「あのホンダが……」と業界から失笑を買ったが、61年に125ccなど2つのクラスで1~5位を独占する快挙を成し遂げ、世間を見返した。この時にレーシングチームの監督だったのが河島氏であり、「技術のホンダ」を世界に知らしめた。

 73年に宗一郎氏の指名で、45歳で2代目社長に就いた。82年には二輪車を海外展開したノウハウを生かし、日本の自動車メーカーとして初めて、米オハイオ州で主力セダン「アコード」の現地生産を開始。ホンダ世界進出のきっかけをつくった。83年まで10年にわたり社長を務め、売上高を就任前の5倍の2兆円に伸ばした。

●HY戦争

 河島氏が社長時代、ヤマハ発動機との「HY戦争」が勃発した。ホンダとヤマハは同じ浜松で誕生したという地縁の枠を超えて、トップ同士が深くつながっていた。

 ヤマハ発動機は1955年、日本楽器製造(現ヤマハ)のオートバイ部門を分離して川上源一氏が設立した。源一氏の父・嘉市氏は、戦時中に政府の方針で楽器工場を戦闘機用プロペラを製造する軍需工場に転換せざるを得なくなった。この時、「日本のエジソン」といわれた宗一郎氏を特別顧問として招き、プロペラを製作した。両者の関係は戦後も続き、プロペラ工場をオートバイの製造拠点に転換するよう助言したのが宗一郎氏だった。オートバイの販売が好調だったので、嘉市氏の後を継いだ源一氏はヤマハ発動機を設立した。

 宗一郎氏は73年、ホンダの社長に河島喜好氏を据えたが、源一氏は77年、ヤマハの社長に46歳の河島博氏を起用し、浜松を代表する企業のトップに河島兄弟が就いた。ホンダとヤマハは二輪車で競い合うライバルだ。のちに、このトップ人事が両社へ大きな影を落とすことになる。

「今日からオレが社長をやる。反対する者はいるか」。80年6月に開かれたヤマハ発動機の臨時役員会。川上源一会長の鶴の一声で河島博社長の解任と源一氏の社長復帰が決まった。源一氏は息子の浩氏を次期社長に据えるため、力をつけてきた河島氏を切ったといわれた。河島氏解任を仕掛けたのは、源一氏の側近・小池久雄氏だったといわれている。ここから河島兄弟と小池氏の因縁が始まる。

 ヤマハを追われた河島氏はダイエー副社長に招かれ、劇的な業績回復をなし遂げた。だが、ここでも息子を社長にしたい一心の同社オーナー・中内功氏によって閑職に追いやられた。河島氏の解任によって、ヤマハはホンダとの関係を断ち切り、ヤマハで当時社長に就いていた小池社長はホンダに宣戦布告した。小池氏は、スカートで両足を揃えて乗れるステップスルー式のスクーター「パッソル」で大ヒットを飛ばし、「女性をバイクに乗せた男」と称賛された。ホンダに追いつき追い越せでやってきた小池氏は、女性用バイクの大ヒットをテコに「オートバイ業界の盟主の座を狙う」と宣言した。

 ホンダ社長の河島喜好氏は、実弟である博氏の解任によって、ヤマハ側の本気度を感じ取った。ヤマハは同氏を経由して自社情報がホンダに流れることを危惧したのだ。ホンダは四輪車に軸足を移していたが、発祥の二輪車で負けるわけにはいかない。かくしてホンダとヤマハの「HY戦争」の火ぶたが切って落とされた。

 勝負を決めたのは、ホンダの「GOGO作戦」だった。新型バイクを次々と投入、同時に旧型バイクの値段を一気に引き下げた。ホンダはわずか18カ月の間に60だった車種を110に拡大した。前代未聞の新製品ラッシュで、ヤマハの挑戦を退けた。

 そして83年2月、河島ホンダ社長と小池ヤマハ社長は日本自動車工業会で会談。小池氏はこうべを垂れ、戦争の終結を申し入れた。この敗戦の責任を取って小池氏は社長を辞任し、河島氏も社長を退いた。

●高い経営手腕への評価

 宗一郎氏の女房役だった藤沢武夫氏は、河島氏について「主張すべきは主張し、譲るところは譲る。非常にバランスの取れた人物」と評していた。このバランス感覚を如実に示したのが、宗一郎氏の引退につながった空冷・水冷論争だった。

 空冷エンジンに固執する本田氏に対して、若手技術者が猛反発した。宗一郎氏の一番弟子的存在だった河島氏でさえ、「会社のことを考えると、辞めていただいたほうがよい」と言いだすほど、本田氏は新しい技術についていけなくなっていた。空冷・水冷論争で本田氏と激しく対立し失踪騒動を起こした久米是志氏の辞表を河島氏は独断で預かり、後にその久米氏を自分の後継社長に指名した。

 若手技術者から直訴された藤沢氏が73年、宗一郎氏を道連れに引退。河島氏は後に、「親父さんがあと3年居座っていたら、ホンダは潰れていたでしょうね」と述懐した。その一方で「あそこで身を引いたのは、親父さんの偉いところ」とも語っている。