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なぜナッツ・リターン事件は異常に面白いのか?日本の事件報道、外注化による気楽さと弊害

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「Thinkstock」より
 名古屋大学の女子学生による老女殺害、和歌山の22歳男性による小学生殺害と、このところ立て続けに物騒な事件が起きている。しかし、いわゆる事件報道(犯罪や事故などの報道)は徐々におとなしくなってきているようだ。

「いや、まだまだ過熱している」とみる向きもあるかもしれないが、かつてのロス疑惑や和歌山毒物カレー事件は言うに及ばず、比較的最近のリンゼイ・アン・ホーカーさん殺害事件などと比べても、事件報道のセンセーショナリズムのボルテージは明らかに下がっている。また、一部のメディアによる伝統芸のような「ドラマ的盛り上げ」「犯人叩き」も、最近はそれほど関心や共感を集めていないように思われる。

 このような変化の背景には、何があるのだろうか。まず、2009年の裁判員制度の開始に先立ち、各メディアが「犯人視報道」(被疑者の逮捕、あるいはそれ以前の段階で、ある人物が事件の犯人であると断定し、制裁を加えるような報道)からの脱却を宣言したことが挙げられる。それ以降、新聞・放送の事件報道現場の意識が変わり、「ドラマ的盛り上げ」「犯人叩き」を控える傾向になった。ただし、それによって抑圧された読者や視聴者の情動の一部が、今はインターネット上に移行している感も否めない。

 また、13年に発生したアルジェリア人質事件では、死亡した被害者の氏名を伝えたメディアやそれを擁護するジャーナリストに対し、多くの視聴者が批判の声を浴びせた。一般人の「プライバシー意識の変化」「メディアに対する批判意識の高まり」も、事件報道の変化の背景として指摘しておくべきだろう。

 それらに加えて、筆者が最近の事件報道の変化の一因と考えているのが、「事件報道の外注化」とでも呼ぶべき流れである。

 筆者が「外注化」を初めて感じたのは、10年にチリで起きたコピアポ鉱山落盤事故の報道である。振り返ってみると、これは実に不思議な騒動だった。例えば、「事故現場で作業員の妻と愛人が鉢合わせし、救出された作業員は結局愛人のもとに帰った」などと、本来事故とは関係のないエピソードが広まり、さらには奇妙なカプセルに作業員を乗せて吊り上げるという特殊な救出方法も話題になった。

 当時、NHKのニュースではスタジオに実物大のカプセル模型を用意し、中にアナウンサーが入って「けっこう狭いです」などとやっていたことを、今も鮮烈に覚えている。むしろ、そういった「面白話」以外に、この事故の詳細を記憶している人はほとんどいないのではないだろうか。

 いや、それでいいのかもしれない。事故は日本で起きたわけではなく、地球の裏側で起きたことなのだから。鉱山労働者の労働実態も、事故を生んだ社会の歪みも、私たちが考えるべきことではないし、考えても仕方のないことだ。私たちはただ、事故をめぐる「人間ドラマ」を楽しみ、それを消費させてもらっただけなのである。

 そして、それはなんとお気軽でお手軽なことだろうか。国内の事件の場合はうるさくつきまとってくる人権やその他の社会問題を、この「外注方式」であればほとんど意識しないで済む。