ビジネスジャーナル > 社会ニュース > 関ヶ原の戦いと大坂夏の陣はウソ?
NEW
浮世博史「日本人が知らなかった、ほんとうの日本史」

関ヶ原の戦いと大坂夏の陣はデタラメだらけ?挑発したのは豊臣家のほうだった!

文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭

関ヶ原の戦いと大坂夏の陣はデタラメだらけ?挑発したのは豊臣家のほうだった!の画像1豊臣秀吉像(「Wikipedia」より/Tabularius)
「天下分け目の戦い」といえば、1600年の関ヶ原の戦いのことです。

 天下統一を実現した豊臣秀吉の死後、息子の秀頼が後継者となりますが、その補佐をめぐって徳川家康派と反徳川派が対立します。

 徳川派が東軍、反徳川派が西軍に分かれて激突したのが、関ヶ原の戦いです。結果は徳川派の勝利ですが、これで徳川家の天下になったわけではありません。

 この時点で、家康はあくまでも豊臣家の家臣です。家康は「秀頼に逆らう家臣たちを討伐する」という建前で、関ヶ原の戦いに勝利しました。

 そして、その立場をフル活用し、家康は西軍に味方した大名の多くを取り潰します。領地を奪って東軍の大名に与えただけでなく、自分に味方した者たちに、豊臣家の直轄地を「秀頼様のためによく働いた。これは、秀頼様からのプレゼントだ」というかたちで分け与えました。

 その結果、豊臣家は大きく力を落とし、大坂(おおざか:現在の大阪)城と、その周辺を所有する「一大名」レベルにまで転落することになります。当然、豊臣家は危機感を募らせ、「このままでは、滅ぼされてしまうのではないか」という不安を、軍事力の増強で補おうとします。

 当時は、関ヶ原の戦いで負けた元大名や浪人がたくさんいました。「失業者」がいて、「求人」があるということで、自然と多くの人が大坂に集まってくるようになりました。

 しかし、これにより徳川家の警戒感を強めてしまいます。徳川家は、「もう一度、乱を起こすのではないか」という不安を、同じく軍事力の増強で補おうとします。

 徳川家は大坂城を囲むように、姫路城や名古屋城、伊賀上野城などを増改築して、警戒態勢を整えました。豊臣家はそれに反発し、さらなる軍事力の増強を図ります。

 お互いに「これ以上は我慢できない、危険だ」ということになり、始まったのが、慶長19(1614)年の冬の陣と、翌年の夏の陣が展開された「大坂の役」です。この大坂の役については、いくつかの誤解があるので、今回はそれを解いていきたいと思います。

方広寺鐘銘事件の真相

 まず、方広寺鐘銘事件があります。これは、慶長 19 (1614) 年に家康が豊臣家を挑発し、滅亡を図ったといわれる事件です。

 家康のすすめで秀頼が方広寺の大仏を再建した際、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の文言に、「『家康』の名を分割し、身を切断することを意味する」と家康が文句をつけます。

 さらに家康は、「君臣豊楽」の文言について、「豊臣家の繁栄を祈願している」と非難し、大仏の開眼を延期させて豊臣家を憤激させました。

 これについて、「こじつけにすぎない」「家康と僧の崇伝による陰謀だ」とされていますが、そうではありません。小説などでは、「国家安康」「君臣豊楽」という文言に対して、「『家康』の2文字の間に『安』という字を入れているのは、家康を呪うためだ」「これは、『豊臣を君として楽しむ』と読める」と難癖をつけたことになっています。

 しかし、これを書いた清韓という人物は、本当に「家康」「豊臣」という文字を入れたのです。いわゆる「隠し題」というもので、清韓自身が「お祝いの意味を込めて、家康の名前を入れました」と説明しています。

 しかし、「豊臣」は姓なのに、「家康」は名です。これだけでも無礼なのに、名を割る(「安」という字を間に入れる)というのは、無礼なやり方といわざるを得ません。

 これは、むしろ豊臣家が徳川家に喧嘩を売るための口実にしたという見方もできます。つまり、挑発したのは徳川家ではなく、豊臣家だったのではないでしょうか。

 また、「大坂城の攻め方を明かしたのは、秀吉自身だった」という話も有名です。

 生前の秀吉が「大坂城を攻めるには、どうしたらいいか」と諸将に問いかけ、誰も答えられないでいると、「一度和睦(和解)してから堀を埋めさせて、二度目の戦いで攻めればいい」と種明かしをしたといわれています。

 しかし、これは完全にフィクションです。当時の一級史料にこのような話はなく、江戸時代の終わり頃の芝居の脚本などでみられるつくり話です。

 また、冬の陣と夏の陣では、戦いの状況が変わっています。「どちらも、大坂城を囲んで戦った」と思っている人もいるようですが、大坂城を包囲して戦ったのは冬の陣だけで、夏の陣は野外での決戦でした。

 夏の陣は豊臣方が北、徳川方が南に配置した「南北戦争」で、大坂城は包囲されていません。おもしろいのは、冬の陣で家康は本陣を天王寺の茶臼山に構えていたのですが、夏の陣では豊臣方の真田幸村が茶臼山に本陣を構えていることです。そのため、夏の陣の戦場は天王寺より南となりました。

「徳川家がだまして内堀を埋めた」の真相

 最後に、「冬の陣の和睦の条件として、大坂城の外堀だけを埋めるという約束だったのに、徳川方が欺いて内堀まで埋めてしまった」という有名なエピソードがあります。

 これも、まったくのデタラメです。和睦の条件は、「城郭は本丸だけ残す」「二の丸と三の丸は破却する」と定められました。外堀「だけ」埋める、などという話は一行もありません。

 そして「二の丸や内堀を担当するのが豊臣方」「三の丸や外堀を担当するのが徳川方」というふうに、役割分担がなされます。

 その際、お互いの思惑にズレが生じました。豊臣方は、「これだけの大工事だから、3年はかかるだろう。ゆっくり時間稼ぎをして、力を回復し、外交を行って味方してくれる大名を募ろう」と考えました。家康は高齢で、秀頼は若かったため、家康が工事中に死去すれば、情勢が変わる可能性もあるからです。

 これに対して、徳川方は超高速で工事を進め、あっという間に三の丸と外堀を埋めてしまいます。そして、「こちらは終わりましたから、お手伝いしましょう」と言って、二の丸と内堀の埋め立てを完了させてしまいます。

 この話が歪められて伝わったのが、「徳川家は、外堀だけを埋めると約束していたが、だまして内堀まで埋めた」という話の真相なのです。
(文=浮世博史/西大和学園中学・高等学校教諭)

関ヶ原の戦いと大坂夏の陣はデタラメだらけ?挑発したのは豊臣家のほうだった!のページです。ビジネスジャーナルは、社会、, , , , の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!