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片山修「ずたぶくろ経営論」

震災、知られざる全自動車メーカー一致団結の奇跡の物語…日産2トップの離れ技

文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家
震災、知られざる全自動車メーカー一致団結の奇跡の物語…日産2トップの離れ技の画像1日産自動車本社(「Wikipedia」より/Wiiii)

 危機を克服してこそ、企業も経営者も、真の“値打ち”が出る。

 日産自動車COO(最高執行責任者/当時)の志賀俊之は、東日本大震災時に日産自動車の「全社災害対策本部」の本部長を務めるとともに、日本自動車工業会会長としても采配を振った。つまり、“2つの顔”を持って、リーダーシップを発揮する。その離れ技ともいうべき数々の活躍のドラマについては、意外に知られていない。

 以下は、東日本大震災から5年の歳月を経た今、明らかにされる「5年目の真実」である。
 
 震災から一夜明けた3月12日、志賀は、日産社内の震災対応と並行して、自工会会長として各自動車メーカーの社長に次々と電話をかけた。同午前7時、豊田市にあるトヨタ自動車本社の災害対策本部にいた社長の豊田章男に電話した。

「章男さん、連携をとりあいながら、業界でまとまって支援活動をやっていきましょう。工場復旧、生産再開を優先させるのではなく、まず人道支援を先にやりましょう」
 
 志賀の言葉に、豊田も即座に応じた。

「志賀さん、間違いなくそうですよ。人道支援を先にやりましょう」

 さらに、志賀はホンダ社長(当時)の伊東孝紳にも電話をかけ、同じ趣旨を話した。ホンダでは栃木研究所が被災し、従業員が一人死亡した。志賀が電話をかけたとき、伊東は瓦礫に埋まった栃木研究所にいて、鈴鹿にデータ拠点を移す段取りを進めている最中だった。

「自社の研究所が被害を受けたと聞いて、伊東さんにはかける言葉がなかったですね。気の毒なことでした。さぞかし苦労されたことと思います」

 志賀は当時を振り返って言う。さらに、志賀は同様の趣旨の電話をかけ続けた。三菱自動車社長(同)の益子修、マツダ社長(同)の山内孝の携帯電話にも同じように電話をした。広島市と防府市に工場を置くマツダは、直接には震災の影響を受けていない。しかし、志賀からの電話を受けて、山内も自工会と足並みをそろえて対策を進めることを快諾した。

 かくして、東京都港区芝大門の日本自動車会館内に「サプライヤー支援対策本部」が設置された。各自動車メーカーからは、ひとりないし2人の社員が派遣され常駐した。現地調査を踏まえて人的支援、物的支援を各社に割り振った。それは、東日本大震災によって危機に立たされたわが国の自動車メーカーの一致団結、ひいては復活劇の幕開けを意味した。志賀が素早く動き、自工会をフル回転させた深層には、過去の苦い経験からの学習があった。

片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家

愛知県名古屋市生まれ。2001年~2011年までの10年間、学習院女子大学客員教授を務める。企業経営論の日本の第一人者。主要月刊誌『中央公論』『文藝春秋』『Voice』『潮』などのほか、『週刊エコノミスト』『SAPIO』『THE21』など多数の雑誌に論文を執筆。経済、経営、政治など幅広いテーマを手掛ける。『ソニーの法則』(小学館文庫)20万部、『トヨタの方式』(同)は8万部のベストセラー。著書は60冊を超える。中国語、韓国語への翻訳書多数。

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