失敗の教訓
2007年7月16日に発生した最大震度6強の新潟県中越沖地震で、リケン柏崎工場が被災した。同社は自動車製造に欠かせないピストンリングの国内シェア6割を握っていた。ピストンリングは、素材、設計、メッキ技術など膨大なノウハウの塊であるうえ、エンジンの仕様ごとにリングを設計するため、代替生産が効かない。
リケンの柏崎工場がピストンリングの生産停止に追い込まれた結果、日産やトヨタをはじめ国内の自動車メーカー12社は、すべての生産ラインをストップせざるを得なかった。各社はリケンの復旧作業を応援すべく、競うようにして支援部隊を現地に送り込んだ。このため、現場は混乱した。志賀は、次のように語る。
「支援部隊が大挙して押しかけ、被災地のコンビニで、水や食料を次々と買い占めたため、肝心の地元の人が消費する分がなくなってしまったんです。それで、社会的にずいぶん叩かれたんですね」
復旧後にも、一波乱があった。生産が再開され、ピストンリングが出荷される段になって、ある自動車メーカーは復旧支援に出した人員の頭数で部品を分けたいと申し出た。人を出さなければ部品は出さないということになれば、いったいどうなるか。企業エゴである。
志賀は、この新潟県中越沖地震の失敗を、二度と繰り返すまいという痛烈な思いを抱いた。
「あの中越沖地震の教訓をいかすには、復旧作業に応援の人を出す前に、自工会レベルで調整をしなければいけないと考えました。翌朝の7時ですから、まだどの社もサプライヤーの支援には動き出していないはずです。動き出す前に調整をしなければいけないと思いましたから、早朝ではありましたが、みなさんの携帯電話に直接、次々と電話をかけたんですね」(志賀)
つまり、震災時に志賀が業界トップとしての自覚のもと、迅速かつ的確で、優れた対応力を見せたのは、高い学習能力と強い危機意識の裏打ちがあったからにほかならない。
際立った決断とアクション
自工会会長としての顔に加えて、志賀には日産の震災対応の指揮を執るという本来の顔があった。志賀が震災時に発揮したリスクマネジメントには、日産COOとしての際立った決断とアクションがある。その決断とアクションがなければ、日産のいわき工場の早期復旧はなかっただろう。それは、リーダーが危機に直面したときに見せる、まさに離れ技といってよかった。
本連載前回記事で述べたように、日産いわき工場は震度6強の烈震に襲われ甚大な被害を受けた。天井からダクトが落下したほか、ライン上からはエンジンも落下した。工場の地面は地盤沈下し、地割れがいたるところに走った。