幸い、地震発生時はたまたま10分間の休憩中だった。組み立てラインには誰も張り付いていなかった。かりに張り付いていたら、ライン上から落ちてきたエンジンで、死傷者が出ただろう。僥倖というほかなかった。
いわき工場では、翌12日から生産再開を目指して復旧作業が始められた。その直後の同15時36分、東京電力福島第一原子力発電所1号機が水素爆発した。さらに2日後の14日、同3号機も水素爆発し、半径30km圏内に入るいわき市の一部にも「屋内退避指示」が発令された。
いわき市が独自に「屋内退避」を推奨したことなどにより、市内はものものしい警戒態勢に入った。パトロールカーは市内を巡回しながら、「屋内に入るように」と呼びかけていた。作業員は外出に不安を覚え、工場に出られなくなった。復旧作業は、完全にストップした。
この震災と原発事故の2つの難問に、志賀は立ち向かった。とりわけ、原発事故は目に見えない放射能との闘いだけに、深刻さの度合いが違った。
「おらが町の工場」
3月20日の夕方、志賀は生産担当の副社長(当時)の今津英敏とともに、JR東京駅にいた。志賀は、今津にいった。
「ちょっと、大丸の地下で買い物があります」
2人は、食品売り場に降りていった。調達したのは、いわき工場の現場の人たちへの陣中見舞のきんつばだった。山のように買い込んだ。志賀の心配りである。トップと現場の距離の近さを感じさせるエピソードだ。和菓子の入った紙袋を手にした二人は、その夜、宇都宮駅近くのビジネスホテルに宿泊した。
翌21日午前6時、二人は「災害緊急車両」のステッカーが貼られた「エルグランド」に乗り込み、日産いわき工場に向かった。いわき工場では、工場長(当時)の小沢伸宏をはじめ30人ほどの主要メンバーが社宅の集会所に参集し、志賀らを待っていた。大丸で調達したきんつばは、このときメンバーに振る舞われた。
トップを迎え、現場には異常に緊張した空気が漂っていた。今津が1週間前にいわき工場を訪れたときとはまったく違っていた。活気がない。何か白々とした空気が漂っていた。
原因は、明らかだった。「工場に入れない」ことにあった。福島第一原発の事故による目に見えない放射能への不安から、復旧工事どころではなかったのだ。設備保全グループ係長(当時)の山崎治は言った。
「工業団地は、どこも動いていません。このままでは、いわき工場はダメになります。閉鎖になります」
集まっていた従業員たちは、山崎の発した「閉鎖」という言葉に黙ってうなずいた。