政府系の商工組合中央金庫(商工中金)は1月12日、不正融資問題で引責辞任を表明していた安達健祐社長の後任に、プリンスホテルの関根正裕取締役常務執行役員を起用すると発表。政府は同日の閣議で、この人事を了承した。3月27日に開催予定の臨時株主総会を経て社長に就任する。
国の融資制度である「危機対応融資」で不正が発覚し、元経済産業省事務次官の安達社長が昨年10月、引責辞任を表明。政府は「民間出身で企業再生の実績がある人」を条件に、後任の人選を進めてきた。
元地方銀行トップや総合商社の役員に就任を打診したが、調整が難航した。最終的に、銀行出身で西武ホールディングスの再上場やプリンスホテルの立て直しに手腕を発揮した関根氏に再生を托すことになった。
関根は世間的には無名だが、広報の世界では有名人だ。これまで裏方に徹してきたが、初めて表舞台に立つことになる。関根氏は1981年、早稲田大学政治経済学部を卒業し、第一勧業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)に入行。広報畑を歩き、77年に発覚した総会屋への利益供与事件で行内改革の一翼を担う。当時、関根氏などの中堅幹部は、第一勧銀そのものが存亡の危機にあると感じていた。
こうした折り、「四人組」が登場した。企画部副部長の後藤高志氏(72年入行)、企画部次長の藤原立嗣氏(同76年)、広報部長の八星篤氏(同72年)、広報部次長の小畠晴喜氏(同77年)の企画・広報畑の中堅幹部の4人が、毛沢東時代の末期に中国で実権を握った若手グループになぞらえて「四人組」と呼ばれた。名古屋副支店長だった関根氏は、小畠氏から本店広報部に呼び戻されて、「四人組」と行動を共にする。
検察庁の動きに関する情報収集、総会屋と絶縁するための警視庁との連絡や警備依頼、殺到するマスコミへの対応などを担当し、まるで「戦う広報」だった。第一勧銀の首脳陣は危機対応を「四人組」に頼るしかなかった。
第一勧銀が相談役5人と会長、正副頭取、専務、常務、取締役ら計26人の大粛清を決断した背後には、経営陣の大刷新を求める「四人組」の強い意志があったとされる。
一度は藤田一郎氏に決まっていた次期頭取人事を撤回して以降、「四人組」が首を縦に振らなければ、新頭取になった杉田力之氏は何も決められなかったと伝えられている。
実質的に、この「四人組」が第一勧銀の実権を握った。その“ご威光”は、戦前の陸軍で統制派と呼ばれた中堅将校さながらだったという評もあるほどだ。
その後、「四人組」は総会屋など反社会的勢力から銀行を救った功労者として出世を遂げた。後藤氏は審査第四部長、八星氏は横浜支店長を経て調査室長となり、それぞれ執行役員に抜擢された。小畠氏は業務統括室長から高田馬場支店長に、藤原氏は荻窪支店長から大阪営業部長へと昇進した。いずれも、同期の出世頭。だが、当然のごとく「四人組」に対するやっかみも生まれた。