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中村芳平「よくわかる外食戦争」

モスバーガー、あえて現場経験不足の新社長抜擢の秀逸戦略…世界進出本格始動へ

文=中村芳平/外食ジャーナリスト

モスの原点

 ここでモスの創業と海外展開の歴史を振り返ってみよう。

 櫻田会長の叔父で創業者の櫻田慧氏は1962~64年頃、日興証券(現SMBC日興証券)の米国ロサンゼルス支店勤務時代、週3~4回は「トミーズ」のハンバーガーを食べていた。街外れの3流立地、店舗はたった3坪のスタンドで飲食スペースもなかったが、「手作りハンバーガーは絶品」だった。

 その後、慧氏は脱サラし起業のチャンスを窺った。71年に日本マクドナルドが1号店「銀座三越店」を開店し大ヒットさせると、慧氏はトミーズのハンバーガーの導入、展開を思い立った。創業の仲間と米国のトミーズを訪ねて販売権買収交渉をしたが、資金的な壁もあり断念。帰国後自分たちでトミーズの味を思い起こし手づくりのハンバーガーを開発した。これが日本発祥のモスバーガーの誕生につながった。

 東京・成増に1号店を開店。試行錯誤しながらモスの快進撃が始まった。モスは創業期、資金力が乏しく直営展開には限界があり、FC加盟者を募り経営理念、行動指針などを共有しながら多店舗化を推進した。

 その一方、モスは73年に「テリヤキバーガー」、87年にコメを素材とした「モスライスバーガー」を新発売し大ヒットさせた。このライスバーガーこそ瑞穂の国・日本で生まれた独自のハンバーガーだ。モスはこのライスバーガーの開発によって、日本発祥のハンバーガー店の地位を確固たるものにした。

 慧氏はモスの海外展開にも熱心だった。89年には米国・ハワイに実験店を出店、逆上陸したが時期尚早で撤退に追い込まれた。90年5月に海外事業部を設立。初代部長に甥で現会長の櫻田厚氏を就けた。そして台湾の大手電機メーカー・東元電機とAFC(エリアフランチャイズ)契約を結び、合弁企業「安心食品服務」(出資比率当時:東元電機70%、モス30%)を設立した。台湾に直営でモスバーガーを展開するのが目的だ。

 90年11月、慧氏はこの合弁事業を成功させるために、信頼する厚氏を安心食品服務の副社長に指名した。慧氏は当時37歳、事実上の創業社長として単身赴任した。慧氏は通訳をつけて現地の創業メンバー8人にモスの経営理念から、商品製造、店舗運営などを指導した。厚氏は「全員に株を保有してもらい起業家としての自覚をもってもらった」という。

 91年2月に開店した第1号店の「新生南路店」(台北市、40坪60席以上)は、ライスバーガーが人気になるなど大ヒットした。これをバネに櫻田氏は91年度に台北市でもう2店舗開店、モスバーガー展開の基礎をつくった。

中村芳平/外食ジャーナリスト

中村芳平/外食ジャーナリスト

●略歴:櫻田厚(さくらだ・あつし)

1951年、東京都大田区生まれ。高校2年生の時に父が急逝し大学進学を断念、アルバイトして家計を助ける。都立羽田高校卒業、広告代理店勤務。72年に14歳年上の叔父(モスフードサービス創業者・櫻田慧)に誘われ「モスバーガー」の創業に参画。フランチャィズ(FC)オーナーなどを経て、77年に同社入社。直営店勤務を経て教育・店舗開発、営業などを経験。90年、初代海外事業部長に就任、台湾の合弁事業の創業副社長として足掛け5年半でモスバーガーを13店舗展開。1985年の株式上場と244店舗展開(16年9月末)、そして同社の海外展開の基礎をつくった。慧氏は97年にくも膜下出血で急逝、享年60。櫻田氏は98年社長に就任、14年会長兼社長に就任し、今年6月、社長を常務取締役執行役員の中村栄輔氏(58)に譲った。社長交代は18年ぶりのことだ。櫻田氏は中村氏に国内事業、新規事業を任せ、海外事業に全力を注ぐ構えだ。「モスバーガー」を世界のブランドにするという、夢の実現に向かって挑戦しようとしている。

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