
東芝は、半導体子会社「東芝メモリ」の売却先を米投資ファンドのベインキャピタルを中心とする「日米韓連合」に正式に決めた。稼ぎ頭の半導体メモリ事業を2.4兆円で売却するといい、その売却益で来年3月末までに財務を改善しなければ上場廃止となる。
売却交渉はこの1カ月、迷走が続いた。8月末まで、売却先は協業する米半導体大手ウエスタンデジタル(WD)だと見られていたが、契約をめぐる主張の違いで交渉は決裂。今回の売却決定を受け、WDは「協業契約違反」として国際仲裁裁判所に差し止めを申し立てた。この結果によっては買収白紙になりかねず、予断を許さない状況が続く。
東芝が巨額損失を抱える原因となったのは、いうまでもなくアメリカでの原子力事業だ。東芝は日本でいち早く原子力事業に飛びついた企業だが、本稿では同社の歴史を振り返り、失敗の本質を探る。
東芝の源流
現在の東芝に至る歴史には2つの流れがある。ひとつは、江戸時代末期の発明家・田中久重(初代)が1875年に創設した電信機工場だ。田中はわずか8歳で「開かずの硯箱」を考案し、からくり人形を発明するなど、若い頃からその名が広く知られていた。この電信機工場がのちにかたちを変えて田中製造所となる。
もうひとつの流れは、「日本のエジソン」といわれた藤岡市助だ。藤岡は90年に日本初の白熱灯製造会社である白熱舎を創設して、日本のエレクトロニクスの流れを築いた。のちに、さまざまなエレクトロニクス製品を開発し、99年に東京電気と改名した。
この2社は共に三井財閥の系列下で互いに株式を持ち合い、提携関係にあったが、1939年に合併して東京芝浦電気(84年に東芝に改称)が誕生した。
戦後はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体のために、膨張していた事業は切り離され、会社の規模は著しく縮小した。戦前は10万人の従業員を抱えていた時期もあるが、この時期は2万8000人にまで激減した。東芝はその後、重電から復活し始め、戦後の社会復興が進むにつれて家電なども軌道に乗り始めた。
原子力への野望
東芝の重電分野を語る上で注目すべきは、50年代後半からの原子力産業への傾倒だ。55~56年に世界的にも国内的にも、原発関連で大きな出来事が続いた。とくに54年12月の国連総会で「原子力の平和利用」が満場一致で採択され、翌55年8月には第1回原子力平和利用国際会議がジュネーブで開かれたのは日本にも大きな転機となった。