“Unsung HERO(評価されない英雄)”舛岡富士雄氏――。
このような衝撃的なイントロから始まるNHKのドキュメンタリー番組『ブレイブ 勇敢なる者「硬骨エンジニア」』(11月23日放送)を見た。この番組では、NAND型フラッシュメモリを発明した舛岡富士雄氏と、その開発初期の頃のメンバーが実名で登場する。そして、発明から事業化へ至るまでの過程を、インタビューなどを交えて生々しく再現している。
本稿では、なぜ舛岡氏がNANDを発明できたのか、なぜ東芝はそれを事業化できたのかを、番組内容を基に簡単に振り返る。そして、東芝を退職した舛岡氏が、なぜ東芝を訴えたのかを考察する。その上で、あなたがもし舛岡氏のような“タレント”だったらどうするべきか、またはあなたの会社に舛岡氏のような“タレント”がいたらどう処遇するべきかを提言する。
舛岡氏がNANDを発明し、東芝が事業化に成功した要因
番組から、東芝がNANDの事業化に成功した要因は5つあったことが見て取れる。以下にその5項目を示す。参考までに、フラッシュメモリ(NAND+NORの合計)ともうひとつの半導体メモリDRAMの売上高推移、および舛岡氏の動向を図2に示す。なお、NORもやはり舛岡氏が1980年頃に発明した半導体メモリで、主としてプログラムを格納することに使われる。一方、NANDは主としてデータの記憶に使われる。
(1)舛岡氏は、1971年~1994年の東芝在職中に約500件の特許を出願している。筆者は16年間の日立製作所での技術者時代に55件出願したが、これでも多いほうの部類に入る。23年で500件とは、とんでもない数であり、舛岡氏はいうなればタレントだったのである。その上、「地球は俺のために回っている」という自信家であり、「誰の言うことも聞かない」自己主張の強い人物だった。そのような強烈な個性が、「常識では考えられない」発想を可能にしたと思われる。
(2)舛岡氏は入社直後に研究・開発(R&D)部門に配属されたが、その後、営業部門に異動となり、IBMやインテルをドサ回りした結果、「どんなに性能が良くても高いメモリは売れない」という挫折を味わった。その経験から、R&D部門に戻った後の1986年に「わざと性能を落として安くするメモリ」としてNANDを発明した。これは、クリステンセン著『イノベーションのジレンマ』で知られる “破壊的技術”にほかならない。
(3)舛岡氏は開発初期の頃に、「NANDがHDDを置き換える!」と将来の夢を語った。東芝の誰もが、「そんなバカなことがあるはずないだろう」と思った。しかし、舛岡氏が貫いた“非常識”が、30年の歳月を経て“常識”になった。リーダーたるものはデッカイ夢を語ることが重要で、その夢を貫き通す覚悟が、事業を成功に導いたと考えられる。
(4)開発初期のチーム10人には“ゆるゆるの天才”のチームリーダー白田理一郎氏、チームの叱られ役で“サンドバッグ”の作井康司氏、元ラガーマンで“影のリーダー”としてチームをまとめた百冨正樹氏など、個性豊かな部下たちがいた。舛岡氏は方針を示し、あとは部下に自由にさせた。彼らが自由に開発できたことにより、わずか3年でNANDの試作に成功し、事業化が実現できたと思われる。
(5)舛岡氏らがNANDを試作し事業化しようとしていた1990年頃は、DRAM全盛の時代で、舛岡氏のチームは「なんでDRAMをやらないんだ」と非難の対象となっていた。このとき、ULSI研究所の武石喜幸所長が防御壁となって舛岡氏のチームを擁護した。武石氏の後ろ盾があったからこそ、NANDは事業化できたといえる。
以上が、筆者が考えるNANDの発明と事業化成功の5つの要因である。もう一言付け加えると、NANDの発明や事業化は「東芝だったからできた」と考えている。仮に日立に同じメンツが揃っていたとしても、DRAMの主流派に叩き潰されただろう。日立に比べて“自由な技術文化”があった東芝だからできたのだと筆者は思う。
東芝を訴えた舛岡氏
舛岡氏は、擁護者であった武石氏が91年に63歳で急逝された後、93年に「部下もなく予算もつかない技監」に昇進させられ、R&Dができなくなった。その結果、「東芝で僕がやることはなくなった」と言って、1994年に東芝を退職し、東北大学教授に就任する。ちなみに94年とは、まさにNANDの量産が始まった年であった。
その舛岡氏は2004年3月2日、東芝を相手取って「フラッシュメモリの発明対価として10億円を要求する」裁判を提起する。かつての部下たちは、「舛岡さん、どうしちゃったの?」と首を傾げ、「裁判沙汰はやめてほしかったですね」と疑義を呈する。また舛岡氏の上司だった飯塚氏は、「彼は自己主張が強い。ある意味、オレがオレがというところがある。全部自分がやったという気持ちになっていたんじゃないのか」と批判する。結果的に06年7月27日に、舛岡氏と東芝は和解し、「舛岡氏の東芝在職中の特許約500件の対価として、東芝が舛岡氏に8700万円を支払う」ことで決着する。
怨念裁判
筆者は、これは「舛岡氏の東芝に対する怨念裁判」であると考える。武石所長の急逝により、後ろ盾を失った舛岡氏は東芝からは“お荷物”とみなされ、研究することができない技監に幽閉されてしまった。それが何より悔しかったのだろう。同番組でも、「人生としてねー、研究したいよねー」と涙ぐみ、「東芝にいたかった。東芝にいて研究を続けたかった」と話すシーンがある。
そして、インタビューに対して、以下のように述べている。
「報酬の少ない技術者を元気づけたかった。訴訟の請求額などは問題ではない」
「僕は戦うためにやっているわけじゃなくて、ちゃんと“評価”してくれればいいわけです」
「そりゃ、評価されたいですよ。それで、相当対価を要求したんです」
「お金の問題じゃない。“ありがとう”と言ってくれれば終わりなんだけどね」
最後の言葉が舛岡氏の本音であると思う。舛岡氏は奇人変人扱いされながらも、NANDを発明した。そして、DRAMの主流派の猛烈な圧力を受けながらも、それをシャットアウトして部下たちを守り、NANDの開発をやらせ続けた。その結果、NANDはDRAMに代わって東芝の基幹ビジネスに成長し、世界を一変させた。
実際、2017年度の東芝は、営業利益4300億円のうちの90%近くをNANDが稼いでいる。東芝は総合電機メーカーではなく、NAND一本足打法のメモリメーカーなのである。そのメモリを売却すると、東芝にはカスしか残らない。
だから、「一言、NANDを発明し、開発してくれて“ありがとう”と言ってほしかった」のである。その“ありがとう”の代わりに虐待を受けた。だから、その怨念が裁判という方法になってしまった。
中村修二氏の裁判と本質は同じ
舛岡氏の裁判は、日亜化学工業で青色発光ダイオード(LED)を発明したノーベル賞受賞者の中村修二氏が起こした裁判と、本質は同じであると思う。中村氏は、「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べている(14年10月8日付読売新聞)。
しかし、中村氏は青色発光ダイオードが製品化されて以降、国内外の学会などで多くの講演を行った際に、日亜化学工業で給料以外に発明に対して得た報奨金を聞いたアメリカの研究者仲間からは低すぎる対価に甘んじているとして「スレイブ・ナカムラ」(スレイブ=奴隷)と呼ばれたという(14年10月8日付毎日新聞)。
社長が交代した結果、社内の批判にさらされ、研究ができなくなった中村氏は、1999年に日亜化学を退社し、2000年に米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授に就任する。その中村氏を日亜化学は00年12月に、営業秘密漏洩の疑いで米ノースカロライナ州東部地区連邦地方裁判所に提訴した。米大学での研究を阻害された中村氏は01年、東京地裁に青色LEDの特許(404特許と呼ばれる)権譲渡および特許の対価の増額を求めて、日亜化学工業を逆提訴した。これがいわゆる「青色LED訴訟」である。
東京地裁は04年1月30日に、404特許の発明の対価の一部として、日亜化学工業に対して中村に200億円を支払うよう命じた。日亜化学側は控訴し、05年1月11日、東京高等裁判所において、404特許を含む全関連特許などの対価などとして、日亜化学工業側が約8億4000万円を中村氏に支払うことで和解が成立した。
恐らく中村氏に、社長が交代した後も日亜化学が研究を続けることができるポストを用意し、そこそこの発明対価を払い、そして、“ありがとう”と感謝すれば、こんな裁判にはならなかったと思う。
中村氏は14年に赤崎勇氏、天野浩氏らと共にノーベル物理学賞を受賞した。中村氏は日本に凱旋帰国する際、日亜化学に、(たぶん本当の和解をしたい意味を込めて)「訪問したい」ことを伝えたが、日亜化学はこれを拒否した。そして、青色LEDが日亜化学の基幹ビジネスになっているにもかかわらず、「中村氏のノーベル賞受賞」には何も反応しなかった。
中村氏が歩み寄ろうとしているのに、日亜化学は拒んだのだ。中村氏と日亜化学は、永遠に(真の意味での)和解はできないだろう。
筆者の経験
NANDを発明した舛岡氏や、青色LEDの基本特許を発明した中村氏には遠く及ばないし、話のレベルも質も違うが、筆者にはお2人の思いがわかる気がする。その理由を以下で述べたい。
筆者は13年7月5日、日産財団にて「なぜ日本半導体は壊滅したか」というタイトルで講演し、デイスカッションおよび懇親会を行った。参加者は日産自動車関係者5人、NPO法人次世代エンジニアリング・イニシアチブ関係者3人、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(通称NEDO)関係者3人、それに筆者の合計12人だった。
注目すべきは、NEDO関係者のなかに現在理事長で06年から09年まで日立製作所の第8代社長を務めた古川一夫氏が参加していたことである。古川氏は日立の社長時代に、日本の製造業史上最大の赤字7873億円(当時)を09年3月期に計上したことでも知られている。
主催者からは、日立の元社長に気兼ねすることなく、半導体業界の内部観察者として凋落の原因を事実に基づいて指摘するよう依頼されていた。筆者は、いつも通りの自己紹介から始めた(図3)。日本半導体が黄金時代にあった1987年に日立に入社し、2002年10月に退職するまでの15年半、主として半導体メモリDRAMの微細加工技術の開発に従事した。
その間、中央研究所、半導体事業部(武蔵工場)、デバイス開発センタ、NECとの合弁会社エルピーダへの出向、民間コンソーシアムの半導体先端テクノロジーズ(セリート)への出向と、部署を転々とした。そうしている間にも日本のDRAMシェアは低下の一途を辿り、私はまさにDRAMの凋落とともに技術者人生を歩んでしまった。
そして、2000年に日本がDRAMから撤退した後、日立は「40歳で課長職以上は全員責任を取って辞めてほしい」という早期退職勧告を行った。その結果、たまたま40歳で課長だった筆者は日立を辞めることになった。
ただし、次の転職先を探すのに苦戦したため、辞表を出したときは早期退職制度の期限を(確か)1週間ほど超過してしまった。それゆえ、早期退職制度を使うことができず、自己都合退職が適用され、本来なら年俸の2年分(2500万円)が上乗せされたはずの退職金は、たったの100万円になってしまった。
筆者は年間20~30回ほど講演を行うが、通常はこのような自己紹介をすると会場には驚きとともに笑いの渦が巻き起こる(特に外国人には大受けする)。しかし、このときは日立の元社長がいたこともあったせいか、会場は凍りついたようになった。
日本DRAM産業壊滅の原因
自己紹介の後、日本半導体(特にDRAM)が壊滅した原因を説明した。その要点は次の通りである(図4)。
1980年代に日本がDRAMシェア世界一になったとき、その用途はメインフレームであった。メインフレームメーカーはDRAMメーカーに対して、25年保証の壊れない高品質DRAMを要求した。驚くことに日本メーカーは、そのような壊れないDRAMを本当につくってしまったのである。そのとき、日本メーカーの開発センターや工場には品質の極限を追求する技術文化が定着した。
90年代に入ると、コンピュータ業界にはメインフレームからPCへパラダイムシフトが起きた。これとともに、DRAMへの要求事項に変化が起きた。PC用DRAMに必要なことは、低価格品を大量につくることであった。25年保証などの高品質はまったく必要なくなった。
PC出荷台数の増大とともに成長してきたのは、韓国のサムスン電子である。サムスン電子はチップ面積を小さくする、微細加工の回数を減らす、装置の処理効率(スループット)を上げるなどの技術を向上させることによって、(25年保証などは必要ない)PC用の低コストDRAMを大量生産した。そして92年に日本企業を抜いてDRAMシェアトップに立った。
95年以降、私は実際にDRAM工場に勤務していたが、日立をはじめ日本はPCおよびサムスン電子の成長を知らなかったわけではない。にもかかわらず、相変わらず日本は(PCにはまったく必要のない)25年保証の高品質DRAMをつくり続けてしまった。なぜなら、あくまで日本メーカーの最重要顧客はメインフレームメーカーだったからである。したがって、日本メーカーはメインフレーム用につくった25年保証の高品質DRAMをPCにも販売した。その結果、主戦場となったPC用DRAMで、日本はコストでサムスン電子に完敗した。
一言でいえば、日本DRAMメーカーは、コンピュータ業界のパラダイムシフトに対応できなかったために壊滅したのである。または、日本はサムスン電子の安く大量生産する破壊的技術に駆逐された。つまりイノベーションのジレンマに陥ったということもできる。
そうか、俺は社長に謝ってほしかったんだ
この筆者のプレゼンに対して元日立社長の古川氏は、「日本のDRAMがなぜ壊滅したのか、今まで非常にもやもやしていたが、図4を見てその理由が明確にわかった」とコメントした。そして、懇親会の席では、筆者が退職するときの日立の冷酷な処置について、当時の社長は古川氏ではなかったにもかかわらず、「湯之上さんには、本当に申し訳ないことをしました」と頭を下げていただいた。
この瞬間に、筆者の中に怨念のように10年以上もしつこくこびりついていた“わだかまり”が、なんだかきれいさっぱりと消え去った気がした。講演会の帰り道にひとつの結論に達した。「そうか、俺は社長に謝ってほしかったんだ」と。
2008年のリーマン・ショック以降、半導体や電機メーカー各社で膨大な数の社員がリストラされている。彼らに必要なのは、第一にFace to Faceによる社長からの心からの謝罪なのではないかと思った。
舛岡氏や中村氏の発明とは話のレベルや質が違うので、ここで筆者の体験談を語ったことが適切かどうかはわからない。しかし、「評価されたかった」という思いは同じであると思う。
あなたの会社にも“舛岡氏”や“中村氏”がいる
08年に筆者はベンチャーを立ち上げようとしていたが、資金援助をしていた会社が傾いて手を引いたため無職無給となり、二度目の失業保険のお世話になった。それ以降、雑誌や新聞に記事を書くことを仕事にし始めた。いつの間にか「ジャーナリスト」と呼ばれるようになった。
次に、筆者を見て講演に呼んでくれ、「君の話はおもしろい、当社の事業に力を貸してほしい」と頼まれ、10年間で10社を超える会社のコンサルタントをすることになった。その結果、最近は「コンサルタント」と呼ばれることが多い。
筆者がコンサルをして十数社を見た経験から言えば、第三、第四の“舛岡氏”や“中村氏”が存在する会社が少なからずある。そして、そのような人物は、その会社への貢献に見合うポストにもついていないし、報酬も得ていない。それどころか“出る杭”として叩かれ、足を引っ張られ、冷や飯を食わされているケースが多い。
もしあなたが“舛岡氏”か“中村氏”だったなら、ただちにそんな会社を辞めて、相当対価を請求する裁判を起こすことをリコメンドする。あなたは、そんな会社に埋没して、一度限りの貴重な人生を無駄にしてはいけない。あなたが活躍できるステージは、世界中に無数にある。
もしあなたが会社の経営層にいるのなら、“舛岡氏”や“中村氏”がどこかにいるのではないかということを、注意深く調査しなければならない。そして、“舛岡氏”や“中村氏”を発見したら、ただちに相応のポストに昇格させ、相応の報酬が得られるように処遇するようリコメンドする。その際、「ありがとう」と言うことを忘れないようにしていただきたい。もしそれを怠ると、将来、その人材はあなたの会社を出ていき、あなたの会社を訴えることになる。逃げた魚は大きい上に、牙をむくのである。
「0を1にする」仕事は“タレント”にしかできない
“舛岡氏”や“中村氏”は、「0を1にする」発明をした。これは、何もないところから価値を創造する“タレント”にしかできない仕事である。一方、多くの会社では、「0を1にする」仕事ではなく、「1を2にする、2を5にする、5を10にする、10を100にする」仕事をした人たちが評価され、昇進し、高額な年俸をもらうようになる。
「10を100にする」仕事ももちろん必要だ。しかし、それは、「0を1にする」発明があって、初めて成立する仕事である。これはまったく質の異なる仕事である。日本では不幸にして「0を1にする」仕事をした技術者が評価されない。これは多くの日本の会社が、可及的速やかに改めなければならない決定的に重要なことである。
それがなされなければ“タレント”は海外にどんどん流出していくだろう。日本のプロ野球選手が次々とメジャーリーグに行ってしまうように。
(文=湯之上隆/微細加工研究所所長)