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LIXIL暫定CEO候補は、リコー凋落招き「1万人リストラ」を主導した戦犯だった

文=有森隆/ジャーナリスト
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LIXIL暫定CEO候補は、リコー凋落招き「1万人リストラ」を主導した戦犯だったの画像1元リコー社長の三浦善司氏(写真:東洋経済/アフロ)

 LIXILグループは6月25日に株主総会を開催するが、会社側の社外取締役候補について元リコー社長の三浦善司氏を暫定最高経営責任者(CEO)に選定したと11日、発表した。株主総会で会社案の取締役候補が選任されれば、三浦氏が暫定CEOを最長で半年、務める。この間に次期CEOを決める。社外取締役候補の1人であるコニカミノルタの取締役会議長、松崎正年氏は暫定CEOについて「上場企業の経営トップを経験した人でないといけない」と語っていた。次期CEOの選定(決定)には3~6カ月かかるとしている。株主総会では前社長兼CEOの瀬戸欣哉氏らも株主提案で8人の取締役候補を推薦している。瀬戸氏は次期CEOに意欲を示している。

 自戒を込めて書く。拙著『異端社長の流儀』(2013年10月刊行、大和書房・だいわ文庫)で三浦氏を取り上げている(以下、敬称略)。タイトルは『「コストカッター」の異名を持つ、初の経理畑出身の社長の剛腕』。

 三浦は異色のキャリアの持ち主である。29歳でオランダ駐在を命じられて以来、48歳で日本に戻るまで、大半を海外で過ごした国際派である。本社では経理本部長、CFO(最高財務責任者)としてキャリアを重ねた。リコーの歴史の中で経理畑の出身者が社長になるのは初めてのことだ。

 2013年4月27日。4月1日付で社長に就任後、初めて決算発表に臨んだ三浦は、いかにも経理・財務畑出身者らしい経営に対する考え方を示した。財務のプロの三浦は、営業や技術出身の社長であれば口にしない点を、あえて強調した。「フリーキャッシュフロー」という言葉だ。リコーのフリーキャッシュフローは12年3月期は1012億円の赤字だったが、13年同期には180億円の黒字になった。これが14年同期には700億円の黒字と4倍に増えると説明した。

 三浦は1950年1月5日、青森県に生まれた。東京理科大学工学部経営工学科の5期生で、上智大学大学院経済学研究科修士課程を修了。76年4月にリコーに入社した。29歳でオランダ駐在を命じられ、30歳~40歳代はフランスやイギリスなどに(事務連絡等の事情で一時帰国していた期間を除き)通算16年間滞在した。管理部門の責任者としてイギリスやフランスの販売会社の合併・買収を行い、93年からはフランスの販売会社の社長を務めた。日本に戻ってきて98年4月、本社の経理本部副本部長に就き、2000年10月、執行役員経理本部長に就任した。

 三浦を本社に呼び戻したのは社長の桜井正光(社長在任96~07年)である。桜井がヨーロッパ担当役員としてリコーヨーロッパの社長をしていた当時、フランスの販売会社の社長が三浦だった。ヨーロッパで桜井と三浦は上下の関係にあった。三浦は欧州に赴任して間もない80年ごろ、手作業で会計業務を行っていた現地法人の経理をシステム化した。この過程で業務のプロセスを標準化して効率化することの重要さを学んだ。この経験を踏まえて三浦は「業務の改革の早道は、業務のプロセスを効率的なものにする標準化が欠かせない」と考えた。三浦はこの提言を桜井にぶつけ、桜井が受け入れた。これを契機に、それまで“異邦人”と見られていた三浦は社内で、徐々に頭角を現すことになる。

副社長時代の“実績”

 2011年4月1日、代表取締役副社長に昇格した。07年4月以降、会長の桜井正光と社長の近藤史朗(在任07~13年)の二人が代表権を持つ体制を続けてきたが、桜井に代わって三浦が副社長に昇格して代表権を持ち、社長の近藤と副社長の三浦が代表権を持つ体制に移行した。

 三浦はあらゆる業務を兼務した。CFO、CIOのほかに、内部統制担当、CSO(経営戦略担当)、CRGP(全社構造改革)推進室長、グローバル戦略室長、通商・輸出入管理室長などだ。営業と技術以外の本社の管理業務をすべて掌握した。経理や財務はあくまで後方支援部隊で縁の下の力持ちだったが、この時点で三浦は経営中枢に座ったことになる。

 2011年5月26日。社長の近藤史朗は大規模なリストラ計画を発表した。グループ全体の従業員11万人(国内4万人、海外7万人)のおよそ1割に当る1万人の人員削減策である。08年秋のリーマン・ショック後、リコーはライバルのキヤノンや富士フイルムホールディングスに比べて、業績の回復が遅れていた。円高が進む厳しい経営環境のなかで、11年3月に東日本大震災が発生した。そこで、同年5月に発表した「第17次中期経営計画」で大胆な人員削減策に踏みきった。中期経営計画を策定したのは経営戦略を担当する三浦だった。

アイコン社のM&Aの失敗

 リコーの前身は1936年2月、理化学研究所で開発された感光紙を商品化するために設立された理研感光紙という会社だ。戦後、理研コンツェルンの解体を経て、63年にリコーという社名になった。創業者の市村清(在任36~68年)は、「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイデア社長として一世を風靡した。自らトップセールスマンだった市村は「販売のリコー」と呼ばれるほどの、広くて厚い販売網を全国に張り巡らした。都心の大型ビルの各オフィスにリコーの営業マンが日々、目を光らせていると言われるほどで、その販売力は他社の追随を許さなかった。

「販売のリコー」で初の技術者社長となったのが桜井正光である。早稲田大学第一理工学部を卒業した技術者である。ヨーロッパ勤務が長く、コピー機関連製品を作る英国工場の立ち上げや、海外販社の運営で手腕を発揮し、96年4月に上席役員8人をゴボウ抜きにする大抜擢で社長に就任した。07年3月まで11年間社長を務め、連結売上高を2倍の2兆689億円に、純利益は5倍の1117億円に拡大した(07年3月期)。

 好業績を勲章に会長となった桜井は、会長就任と同時に経済同友会代表幹事に就任し、2011年4月まで代表幹事を務めた。ライバルであるキヤノンの御手洗冨士夫が日本経団連会長になったことから、経済同友会代表幹事のポストを狙ったと取り沙汰されたこともある。桜井の後任として07年4月、近藤史朗が社長に就いた。新潟大学工学部を卒業した画像システムの技術者である。会長になった桜井が代表権を手放さなかったため、近藤体制は桜井の“院政”と見る向きが多かった。民主党政権時代の財界の窓口は、専ら桜井で、経団連会長の米倉弘昌(住友化学会長)の影は薄かった。

 2008年8月27日。リコーは米国の独立系大手事務機器販売・サービス会社、アイコンオフィスソリューションズを買収すると発表した。買収金額は16億1700万ドル(1721億円=当時の為替レート)。リコーにとって過去最大の買収案件となった。近藤は「買う」という結論を出していた。会長の桜井からは「任せたから君たちで判断して決めろ」と言われていた。

 アイコン社は欧米を中心に400拠点以上の販売サービス網をもち、07年9月期の売上高は4400億円、当期利益は120億円をあげていた。米国で大手企業と長年にわたる取引を続けていて、企業向け高速デジタル印刷サービスに強みをもっていることが魅力だった。買収はアイコン側からリコーに持ちかけられた。買収発表直後のリーマン・ショックによる世界的な金融危機で、景気は一気に後退した。これはリコーにとって大きな誤算だった。

 アイコン社買収で役員から慎重論が出ていたのは、アイコン社が扱う主力商品がキヤノン製だったことによる。6割がキヤノンで、リコー製品は3割にとどまっていた。買収発表会見に同席した三浦は「摩擦はあるだろう。いろいろな方策をとりながらリコー製品に置き換えることを考えている。そこが買収後の(成功の)カギになる」と述べた。アイコン社の扱い商品の切り替えを指揮する仕事が、新たに三浦に加わった。

 2012年3月決算の最終損益が445億円の赤字(その前の期は196億円の黒字)になった。収益悪化を招いた元凶は米国市場で263億円の営業赤字(前期の5倍以上の赤字)となり、その主因は08年に買収したアイコン社の不振だった。シェアの拡大を狙ったアイコン社の買収は失敗に終わった。3年間で1万人以上という過去最大の人員削減に踏み切らざるを得なかったのはアイコン社のM&Aの失敗と密接に関連している。

動の人であり、静の人でもある

 2013年4月1日。三浦が社長に就任した。社長の近藤は代表権のある会長、会長の桜井は特別顧問に退いた。引責辞任の言葉は出なかったが、桜井と近藤は彼らなりに経営責任の取り方をしたと受け止められた。近藤は08年のアイコン社の買収のほか、11年7月にHOYAから「ペンタックス」ブランドのデジタルカメラ事業を買収するなど積極的にM&Aを進めた。当然、買収に伴う資金負担から財務が悪化した。12年3月期に最終赤字に転落して以降、実質的にリコーの経営を仕切ってきたのは三浦だった。

 三浦は、だから責任の重さを痛感している。大学院に進んだ三浦は社歴では、近藤の3つ下で後輩に当るが、三浦が早生まれのため同学年になる。本社の管理業務のほとんどを兼務した上で、新たに営業現場の仕事も加わった。12年4月から米国事業の持ち株会社、リコーアメリカホールディングスの会長兼CEOとペンタックスリコーイメージングの会長を兼務した。

 一人三役、四役をこなし、日米間を毎月往復するのだから体力づくりは欠かせない。上智大学大学院の院生の時に始めた空手は二段の腕前で、毎晩、スクワット(膝の屈伸)や腕立て伏せなど筋トレに励む。もう一つの趣味は、能面づくりである。「面を打つ(彫る)と無の心境になり、気持が落ち着く」という。三浦は動の人であり、静の人でもあるのだ。

「面を打つ」のは経営と似ている。造形をイメージする。企業経営のグランドデザインと同じだ。イメージしたかたちを腕と指先の筋肉に伝える。心と体の統一が取れていないと、イメージが指先にまで下りて来ない。鑿の切れ味も無視できないが、面を打つのは腕(=道具)ではない。心だと三浦は知った。裏方に徹していた三浦は、はからずも、経営を立て直す役割を担い表舞台に押し出された。ゼネラルマネージャーとしてベンチにいたのに、三浦の言葉に即して言えば「サッカーのフォワードとしてピッチに立つことになった」のだ。

「FACTA」(ファクタ出版/2018年10月号)は、『無能トップ4代、リコーの憐れ』というタイトルで、「ドンが進めた拡大路線を後継者が放置。ようやく前期(18年3月期)に膿を出したが、もはや手遅れ」と断じた。

<三浦は近藤と真逆で技術が分からない。「リストラばかりで展望がない」と社内で総スカン。在任4年となった2017年4月に、三浦が事実上解任され、特別顧問になった。近藤は会長に居座ったままで、副社長の山下良則を社長に引き上げた。半年後の2017年10月、インド子会社の不祥事の責任を取らされ、近藤は会長を、三浦は特別顧問を、それぞれ辞任。今の体たらくを作った戦犯はようやく一掃された>(「ファクタ」より)

 無能の烙印を押された三浦を暫定CEOに選んだLIXILグループとは「どんだけ!」(IKKOの決めゼリフ)なのか。
(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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