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木村貴「経済で読み解く日本史」

平安時代、なぜ日本の辺境「平泉」は世界史に大きな影響を与えたのか?海を渡った金

文=木村貴/経済ジャーナリスト
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えさし藤原の郷・金色堂(「Wikipedia」より/Tak1701d)

 岩手県平泉町と岩手銀行、官民ファンドの地域経済活性化支援機構など官民五者は2019年12月16日、観光遺産産業化ファンドの活用に向けた連携協定を結んだ。日本経済新聞によれば、同ファンドは異業種が連携し、地方の文化遺産を集客に活用するもので、同町が適用第1号。IT(情報技術)などを駆使して平泉のブランド力を磨き、訪日外国人の集客増を目指すという。

 平泉といえば、世界遺産にも指定された日本有数の文化遺産で知られる。2011年、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の名で、中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、無量光院跡など5件が世界遺産に登録された。

 世界遺産への登録名でもわかるように、平泉の文化遺産は平安時代末期(院政期)の仏教文化を今に伝える。ところがそこに示された平泉の仏教文化は、日本の中心とされた京都の模倣ではなく、海を越えた中国と直接結びつく独自性を持っていた。日本列島の辺境とみなされがちな東北で、なぜそのように高度な文化が育まれたのだろう。

奥州藤原

 平安末期、平泉を百年にわたり支配したのは、奥州藤原氏である。前九年・後三年の役を経て東北の覇者となった藤原氏は1094年頃、陸奥国(奥州)平泉に居館を置いた。一族は仏教を厚く信仰し、現世における「仏国土」(浄土)の建設を志す。初代の藤原清衡は中尊寺、二代基衡は毛越寺、三代秀衡は無量光院をそれぞれ造営した。

 中尊寺金色堂や無量光院は、当時の先進文化である浄土教の信仰を具現化した阿弥陀堂建築である。金色堂には浄土往生を体現した藤原氏歴代のミイラを納める。同じく中尊寺大長寿院では、通常の阿弥陀堂とは異なる巨大な十体もの阿弥陀像が安置されている。殺生をなりわいとする武将だった清衡が、戦死者の鎮魂と地獄界からの救済を祈念したものだ。岩手大学平泉文化研究センター客員教授の菅野成寛氏は「類例を見ないオリジナルな浄土教文化」と指摘する(『平泉の光芒』)。

 中尊寺金色堂はその名のとおり、黄金をふんだんに使用している。現在当時を彷彿とさせるものは、金色堂しか残されていない。しかし金色堂だけが特別だったわけではなく、中尊寺全体が随所に黄金を用いた豪奢な建築群だったと想像される。

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