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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

ベートーヴェン、難聴になった本当の原因はワインも?今では考えられない当時の日常生活

文=篠崎靖男/指揮者
ベートーヴェン、難聴になった本当の原因はワインも?今では考えられない当時の日常生活の画像1
「Getty Images」より

「教会の鐘が動いているにもかかわらず、鐘の音が聴こえない」

 これは、ベートーヴェンが後半生苦しんだ、持病の難聴の深刻さに気付いた際に語ったとされるエピソードです。“楽聖”とも呼ばれる西洋音楽史の偉大な英雄、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは生涯で9つの交響曲を書き上げましたが、第2番を作曲している時には、早くも聴力の異常に悩み始めています。

 音が聴こえないことは、音楽家にとっての“死”を意味します。自分が書いた作品を、実際に聴くことすらできないのです。悩み苦しんで、ベートーヴェンは遺書まで書いたくらいでした。

 とはいえ、突発性難聴のように、ある日急に聞こえなくなるというものではなく、難聴が少しずつ進行していくものであったそうです。原因については長い間、梅毒だったのではないかといわれていましたが、最近では鉛中毒ではないかという推測が通説になっています。

 ベートーヴェンの毛髪を分析した研究者によって1995年に、新しい発見がありました。ある人物がベートーヴェンの本当の死因を突き止めたい一心で、オークションにてベートーヴェンの20本の毛髪を競り落とし、研究者が分析した結果、難聴を引き起こすとされる、梅毒の治療に当時使用していた水銀が、ほとんど検出されなかったのです。その代わりに、なんと通常の100倍の鉛が毛髪から検出。つまり、ベートーヴェンは鉛中毒となっており、そのために聴力を失っていったのだと結論づけたのです。

 鉛中毒になると、腹痛などの胃腸疾患だけでなく、健忘症や癇癪(かんしゃく)、異常行動のような精神疾患も起こします。進行性聴力障害も含めて、ベートーヴェンが後半生苦しめられてきた心身の疾患と合致するのです。

 鉛は、採掘と精錬が簡単なうえ、柔らかく加工もしやすい便利な金属で、古代から広く利用されてきました。ベートーヴェンが活躍していた当時のヨーロッパでも、水道管、炊事道具、食卓用品、洗面具として大量に使われていました。鉛が毒性と蓄積性を持っていることがわかった現在ではほとんど使用されなくなりましたが、当時はそんなことは知られておらず、ベートーヴェンも鉛製品を使って飲んだり食べたりしていました。それにより、体内に大量に鉛を蓄積して鉛中毒に陥ってしまったと考えられます。

 しかも、ベートーヴェンは大のワイン好きでした。当時のワインは、今では想像もつきませんが、苦みを取るために鉛を添加するのが普通だったのです。したがって、ベートーヴェンは朝起きて、鉛の水道管を通って出てくる水で口をゆすぎ、鉛の鍋でつくった料理を鉛の食器を使用して食べ、夜は鉛が入ったワインを飲んでいたのです。

 その証拠に、ベートーヴェンが使用していたワインの容器からは鉛が検出されているそうです。しかも、医師の勧めにより滞在した温泉地で、温泉水を飲んでいたこともよくなかったともいわれています。温泉の成分には鉛が含まれています。日本の温泉での湯治と違ってヨーロッパの温泉は、お風呂に入るのではなく、都会から離れてゆったりと療養し、毎日の散歩の途中で温泉水を飲むことが一般的なので、難聴の治療に役立つどころか、むしろ逆効果だったのです。

ベートーヴェン、なぜ耳が不自由でも作曲できた?

 余談ですが、日本でも有名な鉛中毒の例として、江戸時代、将軍家の乳母がつけていた白粉(おしろい)に鉛が含まれていたために、将軍の子の多くは早世したり、病気になったではないかという説があります。ベートーヴェンの時代でも、もちろん当時の貧しい栄養事情もありますが、子供が生まれても成人できるのは半分くらいでした。たとえば、モーツァルトなどは7人兄弟でしたが、成人できたのはモーツァルトと姉のナンネルの2人のみです。

 鉛が溶け込んだ水を飲み、寒い冬場には暖炉の近くにいない限りは寒さで凍え、食事も貧しく、もちろんビタミンやミネラルを摂るといった知識などはないため、固いパンやハムばかり。そして、病気になれば、治療法は瀉血(しゃけつ)。これでは体が衰弱するばかりです。

 ちなみに瀉血とは、切開して血を抜く治療法です。当時は悪い血を抜けば病気が軽快すると信じられており、医師の仕事といえば、病人の家々を回って血を抜くことだったのです。熱が出ても瀉血、下痢をしても瀉血、咳が止まらなくなっても瀉血です。

 中世のヨーロッパでは、刃物を使って仕事をする理容師は医師も兼ねており、客の髪の毛を切るだけでなく、瀉血まで行っていました。その名残が、理容室の入り口の横で回っている赤・青・白のポールです。赤は血を、白は包帯で医師を、青は理髪師を、それぞれ表しているのですが、もちろん当時は細菌学もなく、消毒の習慣もないので、理容師が同じ刃物で来店する患者たちの瀉血を行っていました。

 さて、そんな当時のめちゃくちゃな生活環境と幼稚な医学は多くの人を苦しめ、あろうことか、音楽家であるベートーヴェンの聴力を奪ってしまいました。

 ほかにも、難聴に苦しんだ作曲家として、“チェコ音楽の父”スメタナがいます。小学校の音楽の授業で聞くことも多い『モルダウ』の作曲家です。ベートーヴェンの場合は、少しずつ難聴が進行していたので、しばらくはピアノに耳を押し当てて作曲できましたが、スメタナは急に耳が聞こえなくなったそうです。

 とはいえ、ベートーヴェンも『第九』を初演した頃には、観客の拍手も聴こえなくなるくらい悪化しており、会話は自分が話して相手は紙に返事を書いてベートーヴェンに見せるような状況でした。ただ、その会話帳が今も残っており、話し相手が書いた返事が、当時のベートーヴェンの状況を理解する上での貴重な資料となっています。

 ところで、そんな2人の作曲家は、耳が不自由だったにもかかわらず、どうやって作曲を続けたのでしょうか。それはもちろん、病を乗り越えるくらいの音楽に対する情熱と、あふれるばかりの音楽の才能が根底にありましたが、頭の中に浮かんだ音楽を五線紙に書きつけることができたのは、幼少時代から身につけてきた、正確な絶対音感があったからだと思います。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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