
田中愛翔君と杉浦蒼大君という大学生がいる。今春、兵庫県の灘高校から東京大学理科三類に合格した。彼らの学び方はポストコロナの大学教育を考える上で参考になる。ご紹介したい。
私が彼らと知り合ったのは、彼らの東京大学理科三類の同級生である塩野尚君の紹介だ。塩野君は、愛知県の東海高校出身。東海中学3年生で自主研究の宿題がでたときに、『日本の医療格差は9倍~医師不足の真実~』(光文社新書)などの私の著作を読み、インタビューを申し込んできた。長い間、若者を指導しているが、こんな中学生は初めてだった。ものすごい行動力だ。
その後、高校2年生の冬にも、研究所にインターンにやってきた(写真1)。礼儀正しく、約束したことを着実に実行する有能な高校生に成長していた。
今春、塩野君は東京大学理科三類に合格した。私と東京大学医学部の同期で、東海高校OBの日紫喜光良医師が、「週刊誌を読んだら、塩野君が理三に合格していた」と教えてくれた。日紫喜医師には、塩野君が高校2年生のインターン時に紹介し、それから交流があったようだ。私は日紫喜医師と共に、塩野君の入学祝いの会を企画した。その時に、塩野君が呼んだのが田中君と杉浦君だった。この2人は灘高卒で、高校・大学とも筆者の34年後輩にあたる。
筆者が東京大学に入学したのは1987年だ。国鉄が解散、JRに事業を継承し、米アップル・コンピューターが、伝説の「マッキントッシュII」を発表した年だ。電子メールも携帯電話もなく、筆者が入寮した敬天寮という学生寮では、外部と連絡するには、寮の3階にあるピンクの公衆電話を利用するしかなかった。東京にきても、特にすることがなく、ほどなく運動会剣道部(ほかの大学の体育会に相当)に入部し、ゴールデンウィークがあけると講義にもほとんど出なくなった。そして、学生時代の多くを道場と部室で過ごした。
大学時代を通じて交流したのは剣道部の部員・OB、医学部の同級生、敬天寮関係者さらに家庭教師先のご家族だけだった。縁もゆかりもない人を訪問し、話を聞くなど、当時の私は想像だにしなかった。携帯電話やSNSが発達した昨今、若者は他者との「間合い」を詰め、関係を構築するのが上手くなった。その象徴が塩野君、田中君、杉浦君たちだ。その後、塩野君だけでなく、田中君と杉浦君も医療ガバナンス研究所に出入りするようになった。
日本のエリート大学の教育の問題点
私は、東京大学に限らず、日本のエリート大学の教育の在り方に危機感を抱いている。かつて灘高校の教頭を務めた倉石寛氏は、若者を駄目にする環境として、「昔、陸軍参謀本部、今、東京大学理科三類」という。倉石氏は、かつての東大紛争の闘士で、灘高校教諭として多くの卒業生を東京大学に送り込んだ人物だ。彼が問題視するのは、優秀な若者を閉鎖的な空間に置いてしまうことだ。社会のリアリティを知らないまま、観念論だけが先走る。
東京大学の場合、「日本をリードする」という自負がある。入学して数カ月もすれば、体制寄りであれ、反体制であれ、「国家」や「改革」という言葉を語り出す。そして、現場の泥臭い作業より、戦略を構築することを重視するようになる。