『青天を衝け』渋沢栄一…エリートに嫁いだ3人の娘、廃嫡された長男、第一銀行を継いだ孫の画像1
旧宇和島藩の若手ホープとして渋沢栄一に紹介され、栄一の長女・歌と結婚した、法学者・穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)。東京大学教授兼法学部長に就任したのは、わずか26歳のとき。若い! (写真はWikipediaより)

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、渋沢栄一(篤太夫/演:吉沢亮)は京都で活動を続けている。故郷・血洗島村にはまったく帰っていない。妻の千代(演:橋本愛)、長女のうた(歌、歌子とも書く)と再び生活するのは1868(明治元)年、実に6年ぶりのことである(『青天を衝け』では、栄一が江戸から京都へ戻る宿場で妻子との再会を果たすが事実ではないらしい)。

 というわけで、次の子どものこと(琴、琴子)が生まれるのは、その2年後の1870(明治3)年。その翌年に3女のいと(糸、糸子)が生まれるが早世。その翌年に待望の嫡男・渋沢篤二(とくじ)と、立て続けに出産が続いた。篤二が生まれた時、千代は数えの30歳(満29歳)。当時では高齢出産に当たり、それ以降は出産を控えた(という名目で、栄一は側室を相手にした)らしい。

渋沢栄一の長女・歌の夫には、とびきり優秀な法学者・穂積陳重が

 長女の歌は、1882年4月に旧宇和島藩士の東京大学教授兼法学部長・穂積陳重(ほづみ・のぶしげ)と結婚した。歌は満19歳、陳重は8歳年上の27歳だった。

 なぜ旧宇和島藩士かというと、渋沢栄一は1869(明治2)年に明治新政府の大蔵省に出仕したのだが、当時のトップ・大蔵卿(きょう)が、旧宇和島藩主・伊達宗城(だて・むねなり)だったのだ。宗城は栄一の才覚を見込んで伊達家の経済顧問を委嘱。栄一が第一国立銀行を設立すると、宗城も同行に出資した。そこで、伊達家の代表として、旧宇和島藩士・西園寺公成(さいおんじ・きんしげ)を同行の取締役として派遣した(西園寺公成というと、のちの首相・西園寺公望の近親に思えるのだが、ほとんど血縁関係がない。西園寺家の支流が鎌倉時代頃に伊予に進出したものの末裔で、江戸時代は松田を名乗っており、幕末に西園寺に復姓したのだという)。

 公成は伊達宗城の側近として仕え、明治維新後は伊達家の経済活動を支えた。この公成が穂積陳重との縁談を持ってきたのだ。

 陳重は宇和島藩のなかでも比較的高い家柄に生まれ、極めて優秀だった。明治新政府が1870年に貢進生(こうしんせい)制度を導入。各藩から数人の若手藩士(数えの16~20歳)を大学南校(現・東京大学)に留学させる道を開いた。

 陳重はちょうど数えの16歳(満15歳)だったため、第1期の貢進生に選ばれた。さらに陳重は1876(明治9)年には文部省海外留学生に選ばれ、ミドル・テンプル(英国の法曹院)、およびベルリン大学に留学。帰朝後、1881(明治14)年に東京大学法学部に勤務し、翌1882(明治15)年に東京大学教授兼法学部長に就任した。わずか26歳である。東京大学創業の頃であり、若年での抜擢も不思議ではないかもしれないが、それにしても若い!

 栄一は、「当時自分には十九歳の長女とその妹がいたが、男の子(篤二)は一人でまだ十歳だったので、将来自分と長男の相談相手になるような婿を望んでいた。そこへ西園寺がこの話を持ってきてくれたので大変喜んだ」と述懐している。西園寺公成は、渋沢栄一が優秀な人材を女婿に迎えたいと聞き、旧宇和島藩士のホープ・陳重を紹介したのだろう。その後、宇和島人脈が第一銀行へと食い込むことになったのだから、公成の慧眼に狂いはなかった(なにしろ公成の子が第一銀行頭取となり、孫も重役になったのだから)。

 その後、陳重は貴族院議員、帝国大学法科大学長、枢密院議長などを歴任。1915(大正4)年に男爵に列した。

 なお、歌の長女・孝子が、てい(栄一の妹。演:藤野涼子)の子・渋沢元治と結婚している。戦前は近親結婚が多かったからだ。

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