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『鎌倉殿の13人』大泉洋演じる源頼朝は「清和源氏」…源氏の血なまぐさすぎる300年史

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第1話で、しっかり笑いを取って視聴者をわしづみにした大泉洋演じる“鎌倉殿”こと源頼朝。ところで「源氏」ってなんでしたっけ? (画像は同番組公式サイトより)

桓武平氏くらいしかない平氏に比べ、さまざまな“流派”が存在する源氏一族

 2022年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜脚本による『鎌倉殿の13人』。鎌倉殿こと源頼朝(演:大泉洋)を巡る13人を描くドラマだ。そこでここでは、「源氏ってなんだっけ?」の復習をしてみたい。

 実はひと口に源氏といっても、いろいろな種類がある。源頼朝の流れを清和(せいわ)源氏というのだが、これは清和天皇(第56代、在位は858【天安2】年から876【貞観18】年)の子孫の源氏という意味だ。

 天皇の子孫は通常皇族として遇せられるが、それは五世(曾孫の孫)までで、六世になると皇籍を離脱し、姓を与えられて臣下の列に加えられた(臣籍降下)。

 むろん、それ以前に臣籍降下した事例も少なくなかった。たとえば、桓武天皇(第50代、在位は781【天応元】年から806【延暦25】年)の孫・高棟王(たかむねおう)は平姓を賜って、子孫は平氏と称した。「平」という姓は、桓武天皇が造った平安京の一字からとったといわれている。

 桓武天皇の子・嵯峨天皇(第52代、在位は809【大同4】年から823【弘仁14】年)は子だくさんで、すべてを皇族にしていたら国費がかさんでしまい、六世の孫まで待つような悠長なことはいっていられなかった。そこで嵯峨天皇は子どもを1軍と2軍に分け、1軍は親王として皇族のまま維持し、2軍には「源」の姓を与えて臣下とした。

 嵯峨天皇は中国かぶれだった。ルーツが一緒だから「源」という姓を与えるという古代中国の故事にならって、源姓を与えたのだ。それ以降、臣籍降下では源姓を与えることが多くなった。ただし、仁明天皇(第54代、在位は833【天長10】年から850【嘉祥3】年)のように、子・孫が源氏を名乗り、曾孫が平氏を名乗っている事例もあるので、二世(孫)までが源姓、三世(曾孫)以降が平姓だという説もある。

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源氏には天皇ごとにさまざまな“流派”が存在するが、その中でも隆盛を誇ったのが清和源氏。源頼朝や足利尊氏、武田信玄などを輩出した系統だ。

嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏の“著名4源氏”とは?

 平氏といえば桓武平氏くらいしか有名な流れはいないのだが、源氏にはいく通りかある。有名な源氏を以下に紹介しておこう。

①嵯峨源氏
先述の嵯峨天皇の子孫である。百人一首で有名な源融(みなもとのとおる)もそのひとりで、その子孫に鬼退治で有名な渡辺綱(わたなべのつな)がいる。全国の渡辺サンはその子孫といわれる。

②清和源氏
清和天皇の子孫である。公家の流れには竹内(たけのうち)氏しかなく、しかも公家社会のなかでの身分はかなり低い。家紋は笹龍胆(ささりんどう)。その一方、通常「源氏」といえば清和源氏の武家の流れを指すほど、武家には子孫が多い。

③宇多源氏
宇多天皇(第59代、在位は887【仁和3】年から897【寛平9】年)の子孫である。公家の流れでは庭田・綾小路氏などがあり、家紋は笹龍胆。武家の流れには佐々木氏、その子孫の六角・京極・尼子・黒田などがある。家紋は四つ目結い(よつめゆい)を使用することが多い。ただし佐々木氏は実際には宇多源氏ではなく、勝手に名乗っているだけとの説もある。

④村上源氏
村上天皇(第62代、在位は946【天慶9】年から967【康保4年】年)の子孫である。公家の流れの土御門(久我:こが)通親(みちちか)は平安時代末期の有力者で、その子孫・久我家は位の高い公家として栄え、支流も多い。岩倉具視(いわくら・ともみ)もその流れである。家紋は笹龍胆。武家の流れには赤松・名和(なわ)氏などがある。赤松も名和も建武の中興で活躍した家柄で、後醍醐天皇が「醍醐・村上の世」への復帰をスローガンに掲げていたため、村上天皇の子孫を僭称したと考えられる。

 ちなみに、源頼朝・義経兄弟の家紋を笹龍胆とする説があるが、それは公家の源氏の多くが笹龍胆を使っていたことから来る誤解である。家紋が発生するのは平安末期で、頼朝は家紋を持っていなかった可能性が高い。

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源頼朝ゆかりの地である神奈川県鎌倉市は、笹龍胆を市章として制定している。
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八幡太郎の通称で知られる源氏の英雄・源義家。源頼朝や足利尊氏の祖先に当たる。(画像は、江戸時代末期の絵師・菊池容斎による伝記集『前賢故実』【Wikipediaに掲載】より)

藤原摂関家をしのぐ村上源氏の興隆

 源氏のなかには藤原摂関家と婚姻関係を通じ、天皇家の外戚になって公家として栄えた家柄もあらわれた。

 村上源氏の源俊房・顕房(みなもとのとしふさ・あきふさ)兄弟は、それぞれ左大臣・右大臣に昇進。顕房の娘は白河天皇の中宮となって堀河天皇を産み、天皇の外戚として、摂関家を凌ぐほどの勢力を誇った(伯父にあたる藤原頼通にたまたま娘が少なかったり、その娘に皇子が産まれなかったりという偶然が重なった)。

 先述の土御門(久我)通親は顕房の高孫(孫の孫)にあたる。

清和源氏の興隆…藤原摂関家に仕えた満仲、河内源氏の“始祖”頼信、関東で支持された“八幡太郎”義家の名声

 源氏に限らず、中央政権であぶれた貴族の末裔には、地方にくだって武士団の長になるものがあらわれた。その筆頭が清和源氏である。

 清和天皇の曾孫・源満仲(みつなか)は、冷泉(れいぜい)天皇(第63代、在位は967【康保4】年から969【安和2】年)の弟・為平(ためひら)親王を擁立する企て(安和の変)を密告し、源高明(たかあきら/醍醐源氏)の失脚に貢献。藤原摂関家から高い評価を受け、同家に仕えた。

 その子・源頼信(よりのぶ)は河内(現在の大阪府南部)を本拠としたため、子孫は河内源氏と呼ばれる(源頼朝も河内源氏の末裔に当たる)。関東西部で起こった平忠常(たいらのただつね)の乱を鎮圧し、関東の武士に支持された。

 頼信の子・源頼義(よりよし)は、出羽(秋田・山形県)の清原氏とともに安倍氏を鎮圧(前九年の役)。その子・源義家(よしいえ)は石清水八幡宮で元服したため、俗に八幡太郎と呼ばれた。清原氏の内紛に介入、関東武士団を従えてこれを鎮圧した(後三年の役)が、朝廷からは私闘とみなされて恩賞を与えられなかった。義家はポケットマネーで武士団に恩賞を与えたため、関東での清和源氏の声望は大いに高まった。

 義家の弟・源義綱(よしつな)が摂関家と急接近して勢力を増したので、対抗上、義家は白河法皇に接近。白河法皇は源義家を強引に引き立て、正四位下(しょうしいのげ)に叙して院昇殿(法皇への拝謁)を許した。公家たちは「同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」と言って毛嫌いしたという(「同じき源氏」というのは、公家の源氏の存在を前提にしている)。

 源義家は武家のわりに出世しすぎた。こういう時には必ず足を引っ張る輩があらわれる。義家の嫡男・源義親(よしちか)が対馬守在任中に官物を横領し、人民を殺害したとして隠岐の島に配流され、さらに出雲(島根県)で反乱を起こす。追っ手に派遣されたのが、院の近臣・平正盛(たいらのまさもり)、清盛の祖父である。義親は正盛の手勢にあっけなく討たれた。

 義家はすでに死去していたが、義親が討たれてしまったので、その4男・源為義(ためよし)が河内源氏の後継者となった。

為義vs義朝の父子対決…『鎌倉殿の13人』の幕が開く直前に、源氏内部で血で血を洗う死闘が展開

 源為義ははじめ白河法皇の近臣で、同じく院の近臣だった藤原忠清の娘を妻に迎え、長男・源義朝(よしとも)が産まれた。ところが、為義の郎党(家臣)に不祥事が相次ぎ、本人の失態もあって白河法皇から見放され、摂関家への接近という路線変更を余儀なくされた。

 義朝は母方の親族が院の近臣だったので、摂関家に近づきたい為義にとっては邪魔な存在だった。義朝は父から疎まれ、ひとりで関東に赴いた。地元武士団から見れば、義朝は高貴な血筋なので、一段上の立場から武士間の争いを調停したり、勢力争いに加担していたりしていた。義朝の子・頼朝が関東武士団に受けいれられたのは、義朝のこの役割を継承してほしいという思いが強かったのだろう。

 1156(保元元)年に天皇家(後白河法皇vs崇徳上皇)と摂関家(兄・忠通vs弟・頼長)を二分する保元の乱が起きると、源義朝は院政派なので後白河法皇側につき、摂関派の源為義とその子どもたち(義朝を除く)は崇徳上皇側についた。なお、源家累代の郎党たちの多くは義朝側についた。関東での義朝の活躍が評価されてのことだという。

 結果、後白河法皇側が勝利し、源為義と義朝の弟たちは処刑されてしまう。そして、院政派だった源義朝・平清盛が争い、1159(平治元)年に平治の乱が起きて、義朝は敗走中に尾張(愛知県)で討たれた。嫡男の源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されて――そして『鎌倉殿の13人』の幕が開く、というわけである。

(文=菊地浩之)

【参考資料】
元木泰雄『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(2011年、中公新書)
倉本一宏『公家源氏 王権を支えた名族』(2019年、中公新書)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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