ロシアのプーチン大統領の精神状態を疑問視する声が、米政界から出ているようだ。たとえば、上院情報特別委員会のルビオ上院議員はツイッターで「今言えるのは誰もがわかる通り、プーチン氏は何かがおかしいということだ」と指摘した。ブッシュ(息子)政権で国務長官を務めたライス氏も、FOXニュースで「プーチン氏とは何度も会ったが以前の彼とは違う。不安定に見え、違う人物になってしまっている」と語った。
同様の声は、ウクライナ危機を打開すべくロシアまで赴いてプーチン氏と会談したフランスのマクロン大統領の側近からも出ている。「われわれは今回の5時間以上に及ぶ会談で、現在のプーチン大統領が3年前から大きく変わったことを実感した」という。
日本の専門家のなかにも、同様の指摘をする方が少なくない。たとえば、ロシア政治が専門の廣瀬陽子慶応義塾大学教授は、「今までは『クールな合理主義者』だと思っていました。しかし最近の動きには、まったく合理性がないのです」と指摘した。外交評論家で内閣官房参与の宮家邦彦氏も、「戦略的な判断ミス」と断言している。(いずれも2月25日放送のニッポン放送「新行市佳のOK! Cozy up!」での発言)。
国際政治に関しては素人の私の目にも、以前は「クールな合理主義者」だったプーチン氏が変わってしまったように映る。この連載で私は先週、プーチン氏がゲミュートローゼのナルシシストで、マニピュレーターでもあると指摘した。この点に関する私の見解は変わらないが、人格の偏りということだけでは説明がつかない変化がプーチン氏に起きているように見える。
こうした変化の原因として考えられるのは、次の2つである。
1) 脱抑制
2) パラノイア
脱抑制の可能性
まず、考えられるのはプーチン氏が脱抑制の状態に陥っている可能性である。プーチン氏は、ウクライナへの攻撃を開始した2月24日の演説で、冷戦終結後、東方拡大を続けてきた欧米に対する怒りをぶちまけた。この怒りによってプーチン氏が突き動かされたのかもしれないが、国家指導者であれば、たとえ強い怒りを覚えても、侵攻開始によって得られる利益と、経済制裁や国際社会での孤立などによって被る不利益を天秤にかけ、冷静に判断しなければならないはずだ。それができないほど、怒りや攻撃衝動をコントロールできない状態になっているのではないかと疑いたくなる。こういう状態を精神医学では脱抑制と呼ぶ。
脱抑制の原因としては、躁状態、あるいはアルコールや薬物の影響が考えられるが、プーチン氏の69歳という年齢を考えると、ある種の認知症の可能性も排除できない。
とくに脱抑制が多いのは、前頭側頭型認知症、いわゆるピック病である。ピック病では、脳全体が萎縮するアルツハイマー病とは異なり、主に前頭葉と側頭葉が萎縮する。だから、感情や衝動を制御する前頭葉の機能が低下して、抑制がきかなくなる。その反面、記憶障害はあまり目立たないし、初老期(64歳以下)に発症することが多い。ピック病による脱抑制のせいで、社会的ルールを守れなくなり、反社会的行為を繰り返す患者を何人も診てきた。このタイプの認知症をプーチン氏も患っているのではないかと精神科医としては疑わざるを得ない。
認知症ではないとしても、一般に前頭葉の機能は加齢によって低下する。その結果、怒りや攻撃衝動を制御しにくくなる。年を取ると気が短くなったり、怒りっぽくなったりするのは、多くの場合、前頭葉の機能低下のせいと考えられる。
認知症を発症しているのか、それとも単なる加齢によるものなのかは、頭部MRI検査でわかる。だが、この検査を受けるようプーチン氏に勧める医師はロシア国内にはいないのではないだろうか。
パラノイアの可能性も否定できない
もっと深刻な病気の可能性も否定できない。パラノイアである。なぜかといえば、NATOの東方拡大に対してプーチン氏が感じている脅威と恐怖が、実際以上に増幅されているように見えるからだ。
この病気を私が疑うのは、プーチン氏と対比されることが多い旧ソ連の独裁者、スターリンがパラノイアと診断されているからだ。優れた精神科医でレニングラード(現サンクトペテルブルク)精神神経学研究所所長でもあったベヒテレフは、スターリンを悩ませていたうつ状態を治療するために診察した。スターリンは抑えがたい恐怖にさいなまれていたようだ。診察の際、ベヒテレフはパラノイアという用語を用いた。そのせいかどうか、彼は診察のわずか24時間後に怪しげな状況で死亡した。毒殺されたのだ。(『 主治医だけが知る権力者: 病、ストレス、薬物依存と権力の闇 』)
その後、スターリンの存命中に彼の体調不良について言及する者はいなくなった。だが、スターリンの検死を行った医師の1人は次のように書いている。
「スターリンの脳にあった大きなアテローム性動脈硬化症は判断をゆがめ迫害妄想を助長していただろう。意志決定にも影響したと思われる」(同書)
死後にやっと迫害妄想という言葉を用いることができたわけだ。スターリンが側近や使用人なども含めて膨大な数の人々を粛清したのは、迫害妄想のせいで、敵や陰謀を考え出し続けたからではないか。
スターリンと同じ病をプーチン氏も抱えている可能性を疑わずにはいられない。もっとも、同様の疑いを抱く医師がロシア国内にいても、プーチン氏に診察と検査を勧めることはできないだろう。そんなことをすれば、ベヒテレフと似たような運命が待っているだろうから。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
片田珠美『すぐ感情的になる人』PHP新書、 2016年
タニア・クラスニアンスキ『 主治医だけが知る権力者: 病、ストレス、薬物依存と権力の闇 』川口明百美 ・河野彩訳、原書房、2018年