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江川紹子の「事件ウオッチ」第200回

【古市憲寿氏へ江川紹子の反論】新型コロナ、ウクライナ情勢で専門知を軽視する弊害とは

文=江川紹子/ジャーナリスト
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強い公共性を帯びるテレビに求められるものとは?(写真はイメージ)

 よほどネタに困ったのか、社会学者の古市憲寿氏が「週刊新潮」(新潮社)の連載エッセイで私のツイッターを取り上げている。その批判は、曲解もしくは誤解に基づく的外れなもので、放っておけばよいと一時は考えたが、昨今の専門知を軽視する風潮に乗っかった危うい内容をはらみ、テレビ報道のあり方を考えるうえで無視できない問題も含んでいたので、ここで取り上げることにした。

「素人は口を出すな」は古市氏の曲解もしくは誤解だ

 若干経緯を説明する。

 ロシアがウクライナへの軍事侵攻を始める直前の2月23日、この夜のテレビ各局のニュースは、当然のことながら、ウクライナ情勢を大きく取り上げていた。私は、この地域の問題に詳しくないこともあり、NHK、テレビ朝日と各局のニュース番組を追いながら、スタジオに招かれた専門家たちの話に耳を傾けていた。事実を伝えるストレートニュースだけでなく、できるだけ多くの専門家の分析を聞くことで、少しでも立体的に事態を理解したいと思った。

 ただ、日本テレビの『news zero』は、私が見ていた限りでは、専門家を呼んでおらず、司会者はクリエイティブディレクターで、この番組の水曜日のレギュラーコメンテーター(同番組では「パートナー」と呼ぶようだ)の辻愛沙子氏にコメントを求めた。

 軍事侵攻は本当に始まってしまうのか。行われるとしたどのくらいの規模のものなのか、ロシアの意図はなんなのか……。多くの人が固唾をのんで状況を注視していた時の報道番組のあり方として、いかがなものか。

 そんな思いで、私はツイッターにこんな書き込みをした。

〈ニュース番組なのに、ウクライナ情勢を全くの素人(クリエイティブディレクター?)にコメントさせるなんて、どうかしてる…。テレビ消した。<日テレ〉

 一読すればわかるように、私が問題にしたのは、場合によっては第3次世界大戦にまで発展しかねない危機が起きようとしている時の、テレビの報道番組のあり方である。こうした危機時、しかも多くの人にとって身近ではなく、専門性が高い問題については、今後の展開を考える材料として、あるいは視聴者の理解を深める助けとして、ロシア・東欧の情勢や安全保障に詳しい識者の分析や解説を提供することは、報道番組の役割のひとつではないか。

 ところが古市氏は、拙ツイートの趣旨を「誰かに『素人』というレッテルを貼って、その発言を封じる」「素人は口を出すな」という主張と曲解、もしくは誤解したうえで、「非常に危険な行為」と批判した。さらに大上段から振りかぶり、「究極的には民主主義を否定し、全体主義を容認しかねない思想である」と非難した。

 前述のように、私が問題にしたのは辻氏の発言内容ではなく、辻氏に「口を出すな」と言ったわけでもない。ところが古市氏にかかると、危機時の報道番組に、素人の感想より専門家の知見に基づく分析や見解を求める者は、全体主義の手先にうつるらしい。

 さらに古市氏は、こう書いている。

〈江川さん自身は、盛んにツイッターでウクライナ情勢について語っている。いつから江川さんがウクライナの専門家になったのかは知らないが、テレビの「ニュース番組」と、ツイッターは違うというのか〉

 違うに決まっているではないか。公共の電波を使ったテレビの「ニュース番組」の公共性と社会的影響力を、個人が自由に自分の意見や思いを発信するツイッターとは同列に語れない。

 ツイッターに流れてくる情報はまさに玉石混交。事件や災害現場の生の情報や、報道機関発のニュース、無料で読むのが申し訳ないような専門家のコメントも流れてくるが、虚偽情報やヘイトスピーチの類いも混じる。利用者は、そういうものだとなかば割り切って利用している。

 一方、テレビ番組は放送法において「政治的に公平であること」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などと規定され、内容に一定の質が求められる。ツイッター社にも多くの人が利用するメディアを運営する企業として、虚偽情報やヘイトスピーチを拡散しないように努める責務はあるが、放送局に求められるものとは質もレベルもまったく異なる。

テレビ局に課された責務と、昨今のワイドショーへの違和感

 総務省が2020年に行った「新型コロナウイルス感染症に関する情報流通調査」によれば、「新型コロナウイルス感染症に関する情報・ニュースを見聞きしたメディア・サービス」として71.6%の人が「民間放送」を挙げ、50.5%が「NHK」と答えている。テレビ局の側には、危機時には多くの人が情報源として利用するメディアとして、その信頼に応えるための情報提供をする責任がある(放送内容をどこまで信頼するかは人によって異なるだろうし、すべてを鵜呑みにしないリテラシーが視聴者に必要だというのは、また別の話である)。

 ニュース番組に限った話ではない。世の中には、自身の専門外のさまざまな出来事に関して、自信たっぷり「立て板に水」式にコメントを披瀝する口達者な人がいる。わかりやすく、刺激的で感性に訴える話は、視聴者を引きつけ、番組の視聴率にも貢献し、テレビ局にとってありがたい存在なのだろう。しかし、ワイドショーなどの情報番組が、そういう人たちにウクライナ情勢を解説させるのには、私は違和感を覚える。

 彼らがツイッターなどで持論を展開するのは、もちろん自由だ。ウクライナの今と未来になんの責任も持たない人、たとえば橋下徹・元大阪市長やテレビ朝日の玉川徹氏などが、同国の「妥協」や「降伏」を主張するのに、私は賛同も共感もしないが、個人としての発信を止めることはできない。彼らには、自由に考えを述べる権利がある。私にできるのは、それに対する批判くらいだ。

 しかし、テレビ番組となれば話は別ではないか。たとえば橋下氏には自治体の首長経験はあっても、国際情勢、とりわけロシア・東欧の状況や安全保障、核などの問題には素人だろう。テレビ局がそういう人に、情勢やあるべき方向性についての見解を求めるのは違うのではないか。

 ワイドショーやバラエティ番組が、こうした国際的な問題を扱うのが不適当というわけではないし、専門家以外は発言するなと求めているわけではない。ニュース番組を見ない視聴者にとって、事象をかみ砕いて説明してくれる番組は有用だと思う。タレントなど非専門家出演者の発言は、遠い所で起きている出来事を視聴者が身近な問題として意識する助けになるだろうし、専門家に対する質問役になればよい役割を果たすだろう。実際、そういう番組もある。

 私自身も、オウム真理教の事件を巡って、ワイドショーやバラエティ番組に出演したことがあるが、レギュラーメンバーらしいタレントが、率直な質問や感想を投げかけてくれるのは、とてもありがたかった。ニュース番組の視聴者とは違う層に届いている実感もあった。

 ただ最近は、身近に起きうる事件や芸能・スポーツに関するニュースだけでなく、ウクライナでの戦争、日韓・日米関係などの外交問題、さらには新型コロナウイルスなど感染症と医療の問題など、専門性が高い話題を、ワイドショーなどでも扱う。その場合は、専門家の解説が必要だし、多くの番組ではそうしていると思う(どの専門家を招くかによって、番組の質が変わり、専門家の選択に疑問を感じることもあるが)。

 ところが古市氏は、「専門家」について、こう書く。

〈専門家という「玄人」の発言を盲信することの危険性を、この2年間で我々の社会は学んだはずだ。新型コロナウイルスの流行に関して、あまたの専門家の予測は外れた。経済や社会に踏み込んだ発言を厭わなかった専門家も多い〉

専門知の軽視、メディアへの不信、エスタブリッシュメントへの反感が生んだ“反知性主義”

 古市氏は、感染を押さえ込むための手がかりとしての予測シミュレーションを、未来を的中させるための「予言」と勘違いしているのではないか。また、経済や社会との関連に踏み込む発言が、なぜ非難されるのかもよくわからない。

 日本は、欧米に比べてコロナによる死者数が桁違いに少なく済んでいる。その理由を今の段階で断定することはできないが、政府の基本的対処方針分科会(尾身茂会長)や厚生労働省の新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリー・ボード(脇田隆字座長)のほか、全国の自治体に助言をしてきた専門家たちの力は大きかったのではないか。専門家たちは、記者会見やテレビ出演などを通して、さまざまな情報発信もした。それを人々は信頼し、手洗い励行などの生活習慣、高いワクチン接種率につながったといえるだろう。

 ところが、古市氏は「専門家」にネガティブなイメージしか持たないらしい。私が同氏の書きぶりに引っかかるのは、そこから専門家に対する不信と専門知の軽視がぷんぷんと臭ってくるからだ。

 専門知の軽視、メディア不信、そしてエスタブリッシュメントへの反感は、セットになって反知性主義の風潮を作り、ポピュリズムを盛り上げる。そのことを私たちは、トランプ前大統領時代のアメリカから学んだ。

 弊害はとてつもなく大きい。専門知を軽視し、虚偽情報の流布を促進する。知性をないがしろにして感性を重んじる風潮は、人々が心地良く感じられる情報を選択するよう促し、結果的に命や健康、財産を危険にさらす。「新型コロナはただの風邪」と信じ、命を失った人たちもいる。昨今、世界各地で問題になっている「反ワクチン」のムーブメントも、専門知を軽視した陰謀論が背景にある。

 国際関係にかかわる問題にも、そうした風潮は及んでいる。それが安全保障や核などの分野にまで迫り、人々が虚偽情報に惑わされる状況になれば、国を滅ぼす事態を招きかねない。大変危険だ。

 カミュは『ペスト』の中でこう書いている。

〈ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意であった〉
(新潮文庫より)

 報道機関は、人々をなるべく「無用意」な状況に置かないために存在する。その最も大切な役割は、さまざまな事柄について、できるだけ正確な事実と専門家の知見、いくつかの視点をわかりやすい形で届け、人々が考えたり議論したりする材料を提供することだ。

 専門知の軽視は危うい。自由闊達な言論も、事実と知識に支えられていなければ、陰謀論の流布を進めかねない。

 複数の領域にまたがる事柄では、専門家によって意見が対立することもあろう。たとえば感染症対策では、保健・医療畑の専門家と経済方面の専門家では意見が大きく異なる。また、同じ分野の専門家で意見が割れる場合もある。そうした場合、視聴者がなるべく複眼的に物事を見られるような工夫が、報道側に求められる。情報の受け手も、できるだけ複数の見方を知る情報リテラシーは高めたい。

 専門知を軽視しない。これは、「専門家という『玄人』の発言を盲信すること」とは違う。そのことを理解してくださるよう、私は古市氏を始め、多くの人たちの知性に訴えたいと思う。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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