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「乳母」から考える『鎌倉殿の13人』…源頼朝を育てた比企一族はなぜ滅びたか?

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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神奈川県鎌倉市扇ガ谷の源氏山公園内にある、源頼朝公像。頼朝は、自身の乳母のひとり、比企尼が出た比企一族を重用した。(写真はGetty Imagesより)

そもそも、日本史における「乳母」の役目とはなんなのか?

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、存在感を増している比企能員(ひき・よしかず/演:佐藤二朗)。源頼朝(演:大泉洋)の乳母、比企尼(演:草笛光子)の養子として、頼朝政権の中枢に登用された。

 では、そもそも乳母とは何者か。

 乳母とは、実の母に代わって子どもに授乳する役目を担う女性である。

 ではなぜ、そんなことをするのか。

 高貴な女性は授乳や子育てに向かないとか、諸説あるのだが、昔の人びとは経験的に「授乳しないほうが妊娠のサイクルが短い」ということを知っていたのではないか(授乳している間は、「生まれた子への栄養補給もあるのに、いま妊娠してしまうとキツイぞ」と身体が判断し、女性は妊娠しにくくなるらしい)。

 たとえば摂関政治では、入内した娘が皇子を産むか否かで政治的な勝敗が決まるといっても過言ではない。もし妊娠のサイクルを短くする方法があれば、当時の理屈ではそっちに飛びつくだろう。そして、摂関家のような高貴な家系がそうした行為を始めれば、それがその下の階層に広まっていくのは歴史的によくあることだ。

 乳母は実の母と同等、時には実母以上に愛情を持って子に接していたといわれる。

 比企尼も、流人時代の頼朝をなにくれとなく面倒を見ていたらしい。その期間は実に20年! 頼朝にとっては、母親以上の存在だったに違いない。だからこそ、「鎌倉殿」として出世した暁に、何か恩返しをしたいと申し出たら、比企尼は甥の能員を取り立ててほしいと回答したという。そりゃあ、大抜擢せざるを得ないよねえ。

頼朝の乳母4人のなかでも、特に重用された比企尼の「比企一族」

 しかし、頼朝の乳母は比企尼1人ではなかった。『探訪 比企一族』によれば、頼朝の乳母は以下の4人だったという。

・比企尼(比企掃部允[かもんのじょう]の妻、比企能員の養母)
・寒川尼(八田宗綱の娘、小山政光の妻)
・山内尼(山内首藤俊通の妻、山内首藤経俊の母)
・摩々尼(山内尼と同一人物とする説あり)

 このうち、山内尼の子・山内首藤経俊(やまのうちすどう・つねとし/演:山口馬木也)は『鎌倉殿の13人』でも放送開始の頃に出演していた。石橋山の戦いでは大庭景親(演:國村隼)にくみして反頼朝側となり、頼朝の鎧を射抜いた矢に経俊の名が刻まれていたのは有名な逸話である。その後、経俊は捕らえられ、斬首にされるところを山内尼の懇願で一命を助けられた(この時、山内尼は経俊が他者に比べて過酷な仕打ちを受けることに不満を漏らしたが、経俊の名が刻まれていた矢を見せられ、二の句が継げなかったという)。

 それに比べると、比企尼の一族はみな頼朝に尽くし、それゆえ山内首藤一族と違って重用されたのであろう。

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NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で存在感を増している比企能員(写真の右端)。つかみどころのない“くせ者”感が、佐藤二朗にピッタリだ。(画像は同番組公式Twitterより)

鎌倉時代初期に一族が滅亡したゆえ、よくわからない比企一族の“出自”

 しかしながら、そもそも比企一族がいかなる出自なのか、その詳細はわかっていない。後述するように、鎌倉時代初期に一族が滅ぼされてしまった(偽系図を作るヒマもなかった)ので、出自に関する伝承がほとんど残っていないのだ。

 比企藤四郎能員、一族の比企藤内朝宗(ひき・とうない・ともむね)という名前から、藤原氏の末裔を名乗っていたことは確かなのだが、では藤原の誰それからどう繋がっているのかは不詳である。波多野氏の支流という系図を見つけたので、書いてはみたが、どうにもウソくさい。

 比企を名乗っているのだから、武蔵国比企郡を本拠としていたことは間違いない。現在にも地名は残っおり、埼玉県中央部の東松山市あたりを指す。

 ただ、上に記した頼朝の乳母(の夫)はいずれも関東の有力武士であるから、比企一族も相当な勢力を誇っていただろうことは容易に想像がつく。

源義経の正室も比企一族、源頼朝の側近中の側近・安達盛長も比企一族

 比企尼には少なくとも3人の娘がいた。

・長女 惟宗広言(これむねのひろこと)の妻、のち安達盛長(演:野添義弘)の妻
・次女 河越重頼の妻
・三女 伊東祐清(演:竹財輝之助)の妻、のち平賀義信の妻

 頼朝は嫡男・源頼家(演:金子大地)の乳母に比企能員夫妻、および比企尼の次女、三女を選んだ。さらに、比企尼の長女の娘を弟の源範頼(演:迫田孝也)に、次女の娘を源義経(演:菅田将暉)の正室とした。

鎌倉殿の13人』では比企能員夫妻がさらに源氏一族を取り込まんと、義経・範頼兄弟に一族の娘を紹介し、義経はその日の晩に里(演:三浦透子)と関係を持ってしまう……のだが、実際は頼朝の仰せで正室になったらしい。

 また、安達盛長と伊東祐清の妻も、比企尼の女婿だった。

 そう、頼朝の側近中の側近、安達盛長も比企尼の女婿なのである。頼朝の側近に比企尼の娘が嫁いだというより、比企尼の近親だったから側近として使えたといったほうが正しいのだろう。『鎌倉殿の13人』で義経と比企一族の婚儀が決まった時、盛長が能員に立ち話で祝辞を投げかけていたが、それは同族だったからなのだ(まあ、そんな細かい場面を覚えておられる方は早々いらっしゃらないと思うが)。

 そして、伊東祐清であるが、父・伊東祐親(演:浅野和之)が頼朝に対して苛烈であったのに対しなんとなく融和的であったのは、頼朝ベッタリの比企一族から妻を迎えていたことに起因していたのだ。

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比企一族は中世史にこれだけの足跡を残していたのだが……。
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北条義時夫妻の墓。静岡県伊豆の国市南江間の北條寺内にある。(画像はWikipediaより)

北条義時の正室も比企一族…頼朝の乳母・比企尼の孫娘・姫の前にぞっこんだった北条義時

 実は、北条義時(演:小栗旬)の正室も比企一族なのである。

鎌倉殿の13人』では八重(演:新垣結衣)が正室のようになっているが、それは事実ではない。義時の長男が北条泰時(演:坂口健太郎)で、その母は側室で身元がわかっていない――ので、脚本の三谷幸喜氏が泰時の母を八重ということにした――というのが実情である(八重は義時の叔母なんだから、いくら鎌倉時代でも夫婦にはならなかったと思う)。

 さて、比企朝宗(比企尼の子らしい)の娘・姫の前(演:堀田真由)という美女が幕府の女官になっており、頼朝のお気に入りだった。義時は姫の前にぞっこんで、1年あまりラブレターを送っていたものの相手にされず、建久3(1192)年に頼朝の斡旋で義時の正室となったという(『鎌倉殿の13人』では、そんなふうには描かれていないが)。

 八重が義時に嫁ぐのは三谷幸喜氏の創作なので、義時が姫の前を正室に迎える前にいなくならないと具合が悪い。三谷氏ははどうするのかと思っていたら、先日放送された第21回(5月21日放送)において八重は、川に流されて命を落としてしまった。こうしてなんとかつじつまが合ったわけである。

比企の乱で一族滅亡…しかし現在の皇室にも流れる“比企家の血”

 建久10(1199)年に頼朝が急死し、頼家が将軍に就任。能員の娘・若狭局(わかさのつぼね/演:山谷花純)が頼家の愛妾となり、男子・一幡(いちまん)を産む。比企一族の権勢は日増しに強まっていく。

 建仁3(1203)年に頼家が急病となり、重篤な状態に陥ってしまう。頼家が死去した場合に備えて北条時政(演:坂東彌十郎)は、頼家の子・一幡と弟の千幡(せんまん/のちの源実朝)とで全国を二分するプランを献策する。時政の娘・阿波局(演:宮澤エマ)が千幡の乳母になっていたので、これを機に巻き返そうという魂胆が見え見えである。当然、頼家の意志は確認していない。

 ところが頼家は回復し、若狭局からこの話を聞いて激怒。比企一族に北条討伐を指示。今度はそれを政子(演:小池栄子)が耳にして、時政に伝えた。密告合戦である。

 北条一族はこれをチャンスとばかりに、比企一族殲滅を画策。薬師供養にこと寄せて比企能員を北条邸に呼び出した。能員の周辺は暗殺を危惧して、やれ甲冑を着ていけだの郎党(ろうとう:家来)を連れていけだのと忠告したのだが、そこは佐藤二朗である。軽装でノコノコと訪れると、仁田忠常(演:高岸宏行)に刺殺されてしまう。忠常夫妻も千幡の乳母だったのだ。ここでも乳母が出てくる。

 能員暗殺を聞いた比企一族は挙兵したが、北条側が差し向ける軍勢にひとたまりもなく敗れ、一族は枕を並べて討ち死にした。

 義時の正室・姫の前は離縁し、京都で公家に再縁したという。

 姫の前は義時との間に少なくとも2人の男子(朝時、重時)を産み、義時は朝時(ともとき)を嫡男と定めていたのだが、建暦2(1212)年、朝時は女性関係で源実朝の怒りを買って廃嫡されてしまう。つくづく悲運の一族である。

 ただ、比企尼の長女の子・島津忠久の子孫は南九州で覇を唱え、今に続いている。ちなみに、昭和天皇の皇后は母方の祖父が島津家だったので、天皇家には比企家の血が流れていることになる。

(文=菊地浩之)

【参考資料】
西村裕・木村誠編『探訪 比企一族』(まつやま書房)
安田元久『武蔵の武士団 その成立と故地を探る』(吉川弘文館)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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