
今月8日に銃撃されて死亡した安倍晋三元首相について、政府は「国葬儀」を行うと決めた。この件に関する政府のやり方には、釈然としない。反対論もあるなか、根拠も定義も明確でない国葬を執り行おうというのであれば、せめて国会での説明や議論、さらには決議なども必要なのではないか。
法的根拠も曖昧なまま、政府の独断で決定できるものなのか
そもそも「国葬」とはなんだろうか。国家が主催し、経費は国が全額支払う葬儀を指すことはいうまでもないが、単に金の出所の問題だけではないだろう。明確にそれを定義し、その対象、あるいは手続きや内容などを定めた根拠法はない。
政府は、内閣府設置法が根拠だとしている。しかし同法は、内閣府の所掌事務を列挙するなかで、そのひとつに「国の儀式…に関する事務」を挙げているにすぎない。つまり、国の儀式に関する事務は内閣府の仕事ですよ、と言っているだけ。これでは、いくら総理大臣経験者とはいえ、一個人の葬儀を「国の儀式」として執り行う根拠としては、あまりに薄弱だ。
戦前は、大正末期に出された勅令「国葬令」があった。同令により、対象は天皇・皇太后・皇后のほか皇太子・同妃など皇室メンバーのほか、「國家ニ偉功アル者薨去又ハ死亡シタルトキハ特旨ニ依リ國葬ヲ賜フコトアルヘシ」と定められていた。
『国葬の成立』(宮間純一、勉誠出版)によれば、「特旨」とは天皇の思し召しを指す。「特旨」は天皇の大命を布告する公文書である「勅書」の形で公にされ、内閣総理大臣がこれを公告し、葬儀の式次第は総理が案を作成して、勅裁(天皇の裁断)を経たうえで決定されるなどの手続きも、国葬令で決まっていた。
さらに同令は、国葬当日に国民が喪に服すことも義務づけていた。つまり国葬とは、天皇が「国家に偉功ある」と認めた者を、国を挙げて称え、政府主導で見送る儀式であった。つまり、そこには故人に対する高い評価を伴う。国民からすると、望むと望まざるとにかかわらず、その評価を受け入れざるを得なかったし、その行事に参加せざるを得なかった。
この国葬令は戦後、失効している。では、国葬令なき現代において、そして民主主義を標榜する国家において、「国葬」とはどういう意味や性格を持つ儀式なのか。それがまったく明らかにされないまま、「国葬儀を行う」判断だけがずんずん進んでいく。
岸田首相は記者会見で
・憲政史上最長の8年8カ月にわたり内閣総理大臣の重責を担った
・東日本大震災からの復興、日本経済の再生、日米関係を基軸とした外交の展開等の大きな実績をさまざまな分野で残した
・外国首脳を含む国際社会から極めて高い評価を受けている
・民主主義の根幹たる選挙中の蛮行による急逝
などを、国葬実施の理由として挙げていた。
国葬は、やはり行うこと自体が評価を伴う行為なのである。そして、少なくとも税金による費用負担という形で、国民もその評価を分かち合うことになる。
しかし、人の評価は一様ではない。とりわけ安倍氏は毀誉褒貶が激しく、内政、外交ともその実績に関する評価は分かれている。岸田首相の評価を、全国民が共有しているわけではない。にもかかわらず、時の総理大臣が「国家に偉功ある者」と認めれば、莫大な国費を使って国葬を実施することが可能なのか。