
安倍晋三元首相殺害事件が起きて1カ月。政治と旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)を巡る闇の広さと深さを改めて思い知らされている。事件は、この教団が信者に法外な献金を求め家庭を崩壊させたことが、そもそもの原因と言える。
ところが、自民党や安倍氏を支持してきた論者たちは、教団への憤りを示すでもなく、「信教の自由」を悪用する活動への対策に乗り出そうとするでもなく、できるだけ問題には触れまいとし、さらには擁護する。そんな態度からは、安倍氏本人だけでなく、その周辺はまるごとずっぽり、旧統一教会と政治を巡る闇の中にいるのではないか、とも思えてくる。(編註:肩書は8月9日時点のもの)
教団との関係について開き直り、果ては擁護までする自民党議員の面々
政界と旧統一教会の関係は次々に明らかになってきている。
選挙運動を手伝ってもらっていた岸信夫防衛大臣は、「旧統一教会が社会問題となっていることを認識していた」と、悪びれる様子もなく認めた。
教団関連団体のイベントの実行委員長を務めたこともある二之湯智・国家公安委員長(当時)は「平和の運動で名前を貸してほしいと言われて貸しただけ」と居直った。
岸政権では、末松信介・文科相も旧統一教会関連団体にパーティ券を購入してもらったことが明らかになっているほか、萩生田光一・経産相、野田聖子・少子化担当相、山口壮・環境相、小林鷹之・経済安全保障担当相、山際大志郎・経済再生担当相などが、イベント出席や祝電など、濃淡様々な“お付き合い”が発覚している。
その濃さから言えば、やはり自民党清和会(安倍派)が目を引く。同派前会長で、現在衆院議長を務める細田博之氏は、2019年に現在の教団トップである韓鶴子総裁を迎えて行った関連団体のイベントでスピーチ。韓総裁の名を挙げてイベントの意義を称賛し、「安倍総理にも報告する」と述べていた。
しかし、メディアの取材から逃げ回る、あるいは証拠と思われる文書などがあっても関係を認めない議員もいて、その闇の広さと深さは未だはっきりしない。立憲民主党や日本維新の会は、自ら調査を行ったが、最も関係している政治家が多い自民党は、議員個人の問題に矮小化し、調査・公表には消極的だ。
茂木・自民党幹事長は、「党としては一切の関係を持っていない」と繰り返すが、関係のある国会議員は80人前後に上るとも言われる。その関係には濃淡があるとはいえ、これだけの議員が社会的に問題のある集団と付き合っているとすれば、党内の倫理はどうなっているのか、という話である。党内に“カルト汚染”が相当に進んでいるという危機感を持ち、血相を変えて対策に奔走しなければならないはずだ。それをしないのは、カルトが党内に浸透することを放置しているとしか言いようがない。
教団と関係を認めた議員の中には、すぐに関係を断つと明言する者もいたが、開き直ったり、教団を擁護したりする人もおり、多くは今後の関係が不透明だ。
たとえば、たびたび関連団体のイベントで挨拶し、やはり選挙運動の手伝いも受けていた工藤彰三・衆院議員。「破壊的なカルトや反社(反社会勢力)と認定されている団体なら付き合わないが、決してそういうわけではない」と教団を擁護した。
旧統一教会は、オウム真理教の事件が発覚する以前から反社会性が指摘され、「破壊的カルト」の代表格にあげられている集団だ。工藤氏が知らないはずはあるまい。
旧統一教会被害者からの相談に乗っている全国霊感商法対策弁護士連絡会は、全国会議員に宛てて、2018年と翌年の2回、旧統一教会のイベントに出席したり、選挙での支援などを受けたりしないよう要請する要望書を送った。2019年の要望書には、教団がいかに「破壊的」で「反社会的」であるかが具体的に綴られ、関連団体が翌月予定する大がかりなイベントに出席しないよう求めていた。
しかし工藤氏は、それを無視して出席。韓総裁の名前を挙げて、活動を絶賛するスピーチを行った。
工藤氏は、今後も付き合いを続ける意向を示していたが、後に「これだけ大騒ぎになったので、今後しっかり検討する」と発言をぼかした。「大騒ぎ」が収まれば、関係を続けるつもりなのだろう。
関連団体と自民党国会議員らでつくる「日本・世界平和議員連合懇談会(平和議連)」の会長代行、奥野信亮・衆院議員の発言にも驚かされた。同氏はネットメディアの取材に、「何が問題なのかわからない」と開き直り、「家庭がしっかりすることが、世界平和につながると思っている。山上容疑者は家庭がしっかりとしていれば、こういうことは起こらなかったのではないか」(AERA.dotより)と語った。
家庭が世界平和の基礎と言うのであれば、法外な献金を求めてあちこちの家庭を壊している旧統一教会に厳しい批判が向けられるべきではないのか。奥野氏の、何があっても教団の問題には目をつぶる、という態度は、もはや信者のそれに近いのではないか。ここまで関係が深まった政治家や論者は、いったいどこまで広がっているのか、気がかりだ。