兵庫県尼崎市といえば、いわずと知れたダウンタウンの出身地である。昔は工業地帯として知られていたが、実際には現在の尼崎市民の生活と工業地帯は無縁ではないだろうか。なぜならば工業地帯がある尼崎港周辺は、夜景がきれいなデートスポットなどとして、若者たちが訪れることがあるが、尼崎市民の営みがそこにあるかといえば、皆無に等しいからだ。ほとんどの尼崎市民は、工場地帯から国道43号線を越えた地域で生活しており、仕事以外でこの43号線を渡ることどは、一部の地域を除いてほぼないといえる。
そんな尼崎市内には阪神、JR、阪急と3本の電車が通っているが、同じ市内であっても沿線によって土地の値段が変わり、家賃も違ってくる。そのため地域ごとによって住民の層も変わってくるのだが、私が育った阪急塚口駅周辺は、セレブ御用達といわれる「いかりスーパー」が存在し、比較的治安もよく、市内でも裕福な地域といえたのではないだろうか。
ただ、尼崎市で人が一番集まるといわれているのが、阪神沿線の阪神尼崎駅周辺で、つい先ごろまで存在していた遊郭「かんなみ新地」も阪神沿線近くの出屋敷駅を最寄りとしていた。
長年続いたかんなみ新地が突如として幕を下ろした裏側には、コロナ禍の影響があった。緊急事態宣言中の休業によって、すっかり冷え上がってしまったかんなみ新地は、窮地に陥り、このままでは死活問題だと考えた店舗の中には、営業を再開させるところが出てきてしまったのだ。
遊郭では、店舗ごとにオーナーが異なり、個々のオーナーの判断によって多少の営業方針が変わるが、遊郭が存続するための決まりごとは存在し、ひとつの店舗が抜け駆けするようなことはできない。
ちなみに遊郭は、報道などの表向きは飲食店とされているのだが、実質的には風俗営業をしているグレーな存在だ。ゆえに独特の暗黙のルールがある一方で、条例などによる法律の縛りもある。そうした中で問答無用で摘発対象となるのが、営業時間と年齢制限を破った場合だ。ミテコといわれる10代の女の子を使ったり、午前0時を過ぎた営業を行ったりすれば、即刻その店舗は摘発され、営業停止の処分を受けることになる。
他にも、ヤクザ組織との間に何らかの関係を持ち、そこに金銭などが流れていることが判明すれば、関係者らは検挙され、営業することができなくなるのである。そのため、どの店舗も、表立ってヤクザが面倒を見ているようなことはなかった。そして、そうした暗黙のルールを守っていれば、おかみもでお目溢しを与えて、最低限の秩序は守られていたのだ。
だが、コロナで死活問題に直面したかんなみ新地は、その秩序を乱すことになる。ソーシャルディスタンスが声高に叫ばれていたデリケートな時期に、前述の通り、営業を再開する店舗が出てきたのだ。営業する店舗が増えれば、必然的に人が密集してしまう。結果として、近隣住民からの苦情や通報が相次ぎ、尼崎市が動かざるをえなくなったのだ。
一方で、飛田新地は組合長が各店舗に対して、緊急事態宣言中の営業を認めなかった。仮に営業すれば、今後、飛田新地で営業させないと厳しく言い渡していたのだった。結果、かんなみ新地と飛田新地は、明暗を分けることになったのだった。
プロ野球界のパワースポットとなっている焼肉屋
私の地元、塚口に話を戻そう。
私が原作を書いたドラマ『ムショぼけ』のオープニングで使われている公園が、私が小学生からずっと遊んでいたところなのだが、そのすぐ近くには、後輩がやっている焼肉屋「じゅん亭」があり、同じように、『ムショぼけ』の撮影場所にもなっている。尼崎という街には、美味いといわれる焼肉屋が多く、じゅん亭の他にも、出屋敷駅近くの味楽園なども有名で、ここも『ムショぼけ』の撮影でお邪魔している。
そして先日は、プロ野球選手の聖地と呼ばれる焼肉屋「光(みつ)」に仕事でお邪魔することになった。
この店のオーナーは、85歳のお母さんと7個年下の旦那さん夫婦だ。オープンからもう50年になる老舗で、プロ野球選手との交流のきっかけは、今から40年近く前のこと。旦那さんが西武ライオンズファンということで、先ごろ、読売ジャイアンツの打撃コーチに就任したデーブ大久保コーチらが、西武時代にここを訪れたことが最初となり、そこから地元、阪神タイガースの選手などが通い始め、一気にプロ野球界で知れわたる焼肉屋へとなっていった。だが、聖地といわれた所以は、ここの焼き肉がうまくてスタミナがつくというだけでなく、85歳のお母さんの存在にあった。
光に訪れ、お母さんに握手してもらったり、ハグしてもらったりすると、一層活躍できるというジンクスが生まれたのだ。結果、ノーヒットノーランを成し遂げたピッチャーが、ウインニングボールを店に飾ってほしいと持参しにくるほどになり、実際に店内は、そうしたボールが飾られ、プロ野球選手たちのサインが溢れかえっている。
「ほんまにね~、みんな監督なっていくんよ~」
光のオーナーのお母さんが口にするように、ここに通っていた選手の多くが、後にプロ野球の一軍の監督を務めている。
私はこの時、先日の仕事でお世話になったお礼を言いに店を尋ねてた。お母さんは私が座るテーブルに腰を下ろし、いろいろな話を聞かせてくれた。旦那さんは、常連客の中に私のことをよく知る同級生がいると話し、その場で電話をかけてくれた。そうした時間は、とても居心地のよいものだった。
この2年近く、私は尼崎も舞台として出てくる小説を書いていた。まだ詳しいことは言えないが、11月下旬には、ようやく発表することができる。発表する以上、派手にいきたいと思っている。
その小説が出れば、出版も14冊目である。今では書くだけでなく、映像の仕事や出版プロデュース、編集の仕事もするようになった。何の人脈もないところから、ただ小説家になりたいと思い、気がつけば21年目である。
毎回、そろそろ仕事量を減らしゆっくりしたいな~という気持ちもあるが、どうせ私のことだ。一つの物語が終われば、次の物語を描き始めているだろう。なぜならば、私は小説家だからである。
新作小説は、12月上旬発売予定なので、たくさんの人々に読んでもらえたら幸いである。
同時に進学塾にも通うことになっている。40半ば過ぎにして今さらだが、有名予備校の講師に学びながら、高校受験と大学受験を目指すことになったのである。
まだまだ、ゆっくりできそうもないが、それも意外に悪くないと思っている。
(文=沖田臥竜/作家)