ベートーヴェンも嫉妬した天才作曲家ロッシーニ、「ロッシーニ風」で天才料理人に転身
人間づきあいがうまくなく、気難しい性格が災いして苦労した作曲家といわれているベートーヴェンが、実際には多くの熱狂的なパトロンにも恵まれ、生前から大成功していたということは、9月14日付本連載記事『貧困イメージの強いベートーヴェン、実は莫大な遺産を残していた』で紹介しました。
そんな順風満帆な売れっ子だったベートーヴェンですが、日本では映画『のだめカンタービレ』(東宝)で有名になった『交響曲第7番』と『第8番』を1814年に初演してから、次の交響曲『第9番(第九)』を作曲するまで、10年間の空白があることはよく知られています。その間、大病をして寝込んでいたわけではなく、ピアノ曲、歌曲、室内楽曲、宗教曲と多くの名作を作曲しているのですが、大掛かりなオーケストラ作品は、皇帝の命名記念日を祝う音楽や、新しい劇場のこけら落としのための音楽くらいしか書いていないのです。
ベートーヴェン自身に理由を聞くことができない現在となっては謎に包まれたままですが、その時期、ベートーヴェンの活動拠点のオーストリア・ウィーンでは、イタリアからの“大きな風”が吹き荒れていました。
1792年にイタリアで生まれた、ベートーヴェンより22歳下のイタリアオペラの大作曲家・ロッシーニをご存じでしょうか。このロッシーニが1816年、わずか22歳の時にローマで初演した歌劇『セヴィリアの理髪師』が、あっという間にヨーロッパ中に旋風を巻き起こし、当時“音楽の都”でもあったウィーンにも怒涛のようになだれ込んできたのです。
このオペラは、それまでのオペラとは違い、さまざまな趣向が取り入れられています。ギター片手の愛のセレナーデあり、早口言葉のような歌あり、美しい歌声を披露する女性歌手にうっとりとしたかと思えば、大勢の兵隊がなだれ込んできて大混乱になって驚かされたり、とにかく最初から最後まで、その素晴らしい音楽だけでなく、目も離すことができないほど観客を引きつけます。終演後に「明日も見たい」と多くの観客が大騒ぎしていた光景が目に浮かぶようです。
それほど、ウィーン中がロッシーニの音楽に夢中になっていました。しかも、ロッシーニは多作家で、次から次へと新作オペラを発表。彼が1822年にウィーンを訪ねてきたときには、熱狂がピークを迎えていました。それがひと段落してからというわけではないと思われますが、ベートーヴェンが『第九』を初演したのは1824年になってからでした。当時のベートーヴェンは、ロッシーニの才能は認めつつも「大衆は自分の音楽の芸術性を評価せずに、ロッシーニの曲に浮かれている」と愚痴るのが精いっぱいでした。
44歳で引退して華麗なる転身
そんな早熟の大天才・ロッシーニですが、33歳の時に39作目のオペラ、昭和世代にはお馴染みのバラエティ番組『俺たちひょうきん族』(フジテレビ系)のテーマ曲にも使われた『ウイリアム・テル』を作曲して以降、宗教曲くらいしか作曲しなくなり、44歳にはとうとう音楽家を引退してしまうのです。
当時のロッシーニは、1825年にフランス国王のシャルル10世の即位のために書いたオペラが気に入られ、「フランス国王の第一作曲家」の称号とともに、終生年金を受けることになっていました。もう生活のためにあくせく作曲をする必要がなくなっていたのです。そしてなによりも、ロッシーニは音楽に対する興味を失って、料理に夢中になっていたのです。
ちょうどその頃、フランス革命によって職を失ってしまった王侯貴族の料理人たちが、パリ市内に沢山のレストランを開店していました。そして、超一流の宮廷料理を口にすることができなかった市民が大挙してレストランに押し掛け、パリは空前の料理ブームになっていたのです。「美味追求は芸術や学問と同質の文化的営みである」として美食学という学問まで生まれるほどで、そんななかでロッシーニは料理に夢中になり、作曲と同様に新しい料理を考案することにも並々ならぬ才能を発揮したのです。
フレンチレストランで「牛フィレ肉ロッシーニ風」を食べたことのある方もいらっしゃるでしょう。トリュフとフォアグラを上に乗せた豪華なステーキは、このロッシーニが考案したレシピのひとつだといわれているのです。彼は自分で料理を研究し、毎週末、客人を招待して新しい料理を振る舞っていた正真正銘の料理人でした。そのなかの逸品が、「ロッシーニ風」と名付けられて、今もフレンチレストランのメニューに載せられているわけです。