いきなり最大市場である首都圏に攻め入ることをせず、地方の中核都市で黒霧島が焼酎飲料のなかで上位シェアを取ってから別の都市に展開する、というものである。
「九州が地場なので、まず福岡を攻め落とそうとしました」
江夏氏は、博多などで徹底したサンプル瓶の配布を朝から出社するサラリーマンに展開したそうである。サンプルにはアンケートがあり、そのアンケートのファックスが来ると、30本ものさらなるサンプル瓶パックをその会社の職場に持参するという作戦だ。なかには何度もアンケートの回答を送ってサンプル・パックを繰り返しねだる図々しいケースもあったそうだが、構わず対応した。
「話題になり、知名度が上がればいいと思ったのです」
こうして「黒霧島前線」は、広島、大阪、名古屋と北上して、最後に満を持して首都圏に攻め入ったそうだ。地域戦略的なマーケティング展開である。「点から線へ」、あるいは「一点突破全面展開」だ。江夏氏は「ランチェスター戦略でした」と明かす。
商品開発とマーケティングが効を奏した
霧島酒造は、黒霧島の展開で業界勢力図まで一新した。
「当社の売り上げは、13年に日本酒と焼酎メーカーが日本に2088社あるなかで1位となりました。同時に、それまで麦焼酎の売り上げより下位だった芋焼酎が上回り、長年焼酎の製造量で鹿児島県が全国1位でしたが、芋焼酎を主とする宮崎県が抜き去りました」
霧島酒造の大成功の要因について、江夏氏は「全従業員の物心両面の幸福を追求すること、これは稲盛和夫氏から直に学んだことです。そして、お客様に喜びを与え続けることです」と語る。
この2つの経営哲学が霧島酒造を躍進させた、と江夏氏は言うが、本当なのだろうか。
霧島酒造は100年企業だが、その躍進はこの15年ほどのことである。その前の85年間、同社は従業員を大切にしてこなかったのか、お客様を幸せにしようとはしていなかったのか。そんなことはないだろう。
霧島酒造の成功は、黒霧島の開発というマーチャンダイジングとそれを拡販させたマーケティングにある。それが2大成功要因だと私は見る。
横綱・白鵬 をCM起用、焼酎で天下
同社は14年、黒霧島以前の主要製品だった「霧島」を「白霧島」と改名した。そして、横綱・白鵬をCMに起用した。それは、私にはまさに同社の「業界横綱宣言」に聞こえた。