1度目は1950年。全国で労働争議の嵐が吹き荒れたとき、スズキは資金繰りが急激に悪化した。創業者の鈴木道雄氏は、豊田自動織機社長の石田退三氏を頼り、2000万円の融資を受けて乗り切った。この年、石田氏はトヨタ自動車の3代目社長に就任した。石田氏はスズキを訪問し、社員を前に「スズキの経営に口を出すつもりはないので、安心して仕事に励んでほしい」と述べたと伝えられている。
2度目は76年。東京で初の光化学スモッグ被害が発生したのを機に、排ガス規制が強化された。スズキは排ガス規制への対応が遅れ、クルマがつくれなくなってしまった。創業以来の深刻な経営危機に陥ったのである。この時、専務だった修氏がトヨタの5代目社長の豊田英二氏のもとに駆け込んだ。トヨタグループのダイハツ工業からエンジンを供給してもらい九死に一生を得た。
こうした経緯があるからだろう。修氏は78年に4代目社長になった時、義父で2代目社長の鈴木俊三氏から「何かあったらトヨタに(駆け込め)」と申し渡されたという。現社長で息子の俊宏氏は、スズキに入社する前の約10年間、トヨタグループの大手自動車部品メーカー、デンソーで修業した。長男の俊宏氏を社長にした折りも、章一郎氏に俊宏氏を連れて挨拶に行っている。同業他社のなかで直接訪問して挨拶したのはトヨタだけだ。
豊田家と鈴木家の親密な関係に、修氏は今回も頼ったことになる。トヨタグループの創業者、豊田佐吉翁とスズキの創業者、鈴木道雄氏の生誕の地は遠州(現在の静岡県西部)。創業家の出身者がトップを務めるなど、両社には共通点が多い。
スズキの伝統は養子経営
スズキには養子が経営を継承する伝統がある。1909年に初代社長の鈴木道雄氏が静岡県浜松町(現・浜松市)で鈴木式織機製作所を起こしたことに始まる。道雄氏の養子となった俊三氏が2代目社長、同じく道雄氏の養子の實冶郎氏が3代目社長に就いた。
修氏も養子。58年に俊三氏の婿養子となり、鈴木自動車工業(現・スズキ)に入社。これは軽四輪自動車を立ち上げた時期と重なる。
78年に修氏は4代目社長に就任し、インド政府の要請でインドに進出。インドのトップ自動車メーカーとなり大成功を収めた。修氏はスズキの中興の祖と呼ばれる。
修氏は鈴木家の伝統に従い後継者にするため養子を迎えた。一口に世襲といっても、日本は中国や韓国とは大きく違う。中国や韓国では血のつながりを重んじるが、日本では必ずしも血縁でなくてもよいと考えている。日本では、家(いえ)を継承することが最も大事だと考えるからだ。その結果、娘婿が家業を継ぐというケースが増えた。
ところが、修氏の事業継承ルールが完全に狂ってしまった。次期社長に就任すると目されていた娘婿の小野浩孝取締役専務執行役員が2007年12月に、膵臓がんのため52歳の若さで急逝した。以来約10年間、スズキは後継者を誰にするかが経営の最重要課題になっていた。