日銀「黒田砲」に踊れなかったパナソニック 弱腰な改革姿勢で市場も見放した
今回、初めてテレビ事業(液晶テレビとプラズマテレビ)の連結収支を開示した。これによると12年3月期には2100億円の赤字を計上したが、パネルの構造改革やセット固定費の削減、販売費の抑制などにより13年同期は860億円まで赤字を圧縮する見通しだという。
だが、何をやってもダメなときはダメなもので、初めてテレビ事業の収支を開示したのは「プラズマテレビから撤退しない言い訳」と受け取られた。
「撤退の可能性はゼロではない」「頑張れる限り、頑張る」「撤退は最後の最後の判断になる」。津賀社長の、本来の歯切れの良さは影をひそめた。
プラズマテレビから撤退の決断をできなかったのは“カリスマ経営者”中村邦夫前会長(現・相談役)に配慮したと見る向きが少なくない。プラズマテレビ事業は、中村氏のいわば“聖域”だったからだ。
社長時代の中村邦夫氏がプラズマテレビの巨額投資を決断したのは、03年のことだ。当時、「プラズマは液晶より明るく、解像度も優れている」というプラズマ信仰があった。尼崎第1工場が稼動した05年には、誰の目にもプラズマが液晶に敗れたことは明らかだった。しかし、中村氏だけがプラズマにこだわり続けた。
中村氏から06年にバトンを受けた大坪文雄社長も、プラズマ拡大路線を引き継いだ。第1工場に続き、第2工場、第3工場と巨大なプラズマ生産工場を稼動させた。尼崎の3工場に投じた総額は6000億円に上った。
「プラズマからの撤退なくして、パナソニックの再生なし」。撤退を最初に提案したのは、専務時代の津賀一宏氏だった。新社長に就任した津賀氏が、いつプラズマテレビからの撤退を決断するかが焦点になっていた。
プラズマパネル工場や三洋電機の買収など、12年3月期と13年同期の巨額赤字の原因を作り、“A級戦犯”といわれた前社長の大坪文雄会長は6月26日の株主総会で退任することは決まった。しかし、津賀氏は、プラズマテレビから撤退の決断を先送りした。
投資家は津賀社長を「決断できないトップ」と一刀両断した。これが、“黒田相場”で沸き立つ株式市場で、パナソニック株が値上がりしなかった理由である。津賀社長はパナソニック改革の旗手になる絶好のチャンスを逃がしてしまった。
津賀社長は中計の発表の席で「あまり円安に振れすぎないでほしい」とも語った。白物家電は海外で作ったものを国内に逆輸入しているし、資材の輸入も多い。急激な円安は、パナソニックにとって、むしろマイナスらしい。
中期経営計画の発表の席上で、津賀社長はアベノミクスに乗れないパナソニックを、強烈に印象づけてしまった。
「覆水盆に返らず」という。市場の期待を取り戻すのは簡単ではない。
(文=編集部)