和孝さんがどのような働き方をしていたのか、遺族への取材と裁判資料から整理してみよう。
和孝さんは、剣道で特待生入学した高校を卒業すると、都内の高級レストランに入社。しかし、長時間労働や希望する調理の仕事になかなか就けなかったことから2年で退社した。
退社後は、父・政幸さんが当時店長をしていた「くいしんぼ」入谷店でアルバイトが不足しており、和孝さんが「調理の仕事がしたい」と話していたこともあり、「自分のところで働いてみないか」と声を掛けた。これがきっかけとなり、和孝さんは07年5月から入谷店でアルバイトを始めた。
その3カ月後の07年8月、和孝さんが正社員として採用された。親子一緒では教育にならないという社長の方針で、和孝さんは高円寺北口店に異動。渋谷センター街店に配属されたのは、半年後の08年2月ごろのことだ。このとき同店を仕切っていたのが、和孝さんより1歳年上の店長代理・A氏(仮名/後に店長、エリアマネージャーと昇格)だった。
●休日にも呼び出し、役員も問題を認識
配属当初こそ週1日程度は休むことができ、8月ごろからは同店のアルバイト女性との交際も始まった。しかし、やがて休みは月に1度取れるかどうかという程度になり、その休日の時もA氏に呼び出されることがたびたびで、デート中に「ソースが足りないから買って来い」と命じられて店に届けたこともあった。
その彼女は、遺族が損害賠償を求め会社やA氏らを訴えた裁判で、和孝さんの休みについて、「丸々1日を休むことは、ほとんどありませんでした」「ひどい時は、3カ月に1回しか休みがありませんでした」と述べている。
家に帰らず、店舗に寝泊まりすることも多くなった。
心配した父・政幸さんはあるとき、店舗巡回で入谷店に来た執行役員に「店舗に寝泊まりしているようだ」と漏らした。気になった執行役員が本部の書類を注意深く見ていくと、確かに和孝さんは休みをほとんど取っていなかった。
「なぜ和孝君に休日を与えずに働かせているのか」。執行役員から問われたA氏は、「こいつは休みがあると無駄遣いするし、俺が鍛えてやっているんですよ」と答えたという。
A氏にセンター街店を任せていたエリアマネージャーも、売上報告書に目を通しているうちに、和孝さんがほぼ毎日出勤していることに気づいた。
心配になり、「くいしんぼ」の運営元であるサン・チャレンジの上田英貴社長に、「なぜ和孝君には休みが全然ないのですか」と尋ねると、社長は「休みをあげるとすぐにパチンコに行ってしまうので、その癖を抜くために毎日仕事をさせている」と答えたという。
●労基署も過労死を認定
和孝さんの労働時間はどうなっていたか。
訴状などによれば、「くいしんぼ」の営業時間は午前11時から午後11時の12時間だが、店長や従業員は仕込みや掃除などのために午前10時に出勤し、閉店後の片付けやレジ締めなどを済ませ、午後11時半から午前0時ごろに退勤するのが一般的という。フルに働けば、休憩1時間を取れた場合でも、1日の労働時間は12.5時間から13時間だ。
和孝さんの死亡を労災と認めた渋谷労働基準監督署は、会社の売上報告書をもとに死亡前の8カ月の労働時間を計算。これによれば、所定労働時間を週40時間とし、1日1時間の休憩を取得していた場合、残業時間は最も少ない月で162時間30分、最も多い月で227時間30分に達した。死亡した11月を除く平均は月194時間、8カ月の合計は1355時間にもなる。
また、4月1日から11月7日までの間に和孝さんが取得できた休みは、たった2日しかなかった。加えて残業代はまったく払われておらず、ボーナスについても渋谷労基署は「支給規定はなく、支給されていない」としている。
和孝さんが死亡する1年半前の09年3月、父・政幸さんはサン・チャレンジを退社した。その際、「お前はどうする」と和孝さんに聞いたが、和孝さんは「もうしばらく続ける」と答えたという。
(文=佐藤裕一/回答する記者団)
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