遺産相続をめぐり、骨肉の争いが再燃
このポーラ・オルビスHDのNo.1とNo.2の対立が、創業家の骨肉の争いを再燃させた。
ポーラ・オルビスHDの創業は1929年。静岡で鈴木忍氏が会社を立ち上げ、化粧品の訪問販売で国内首位になった。中核のポーラ化粧品本舗の社長は代々、鈴木家の出身者が務めてきた。2000年1月、2代目社長の鈴木常司氏が会長になり、甥にあたる鈴木郷史氏が社長に就いた。
鈴木郷史氏は1979年早稲田大学大学院理工学研究科終了。本田技研工業を経て、86年、ポーラ化粧品本舗に入社。製造部門のポーラ化成工業社長を経て、本丸のポーラ化粧品本舗の社長になった。
2000年10月、常司氏が自宅マンションの火災でやけどを負い、1カ月後に死亡した。ここから遺産相続をめぐり骨肉の争いが勃発した。
甥である鈴木社長には直接の相続権はない。しかし鈴木社長は、入院中の常司会長から、ポーラの持ち株は財団に寄付し、持ち株以外の残りの財産は鈴木社長が引き継ぐという趣旨の「死因贈与」を受けたと主張し、「千壽夫人の相続は無効」とする裁判を起こした。
死因贈与とは、贈与者が亡くなった時点で効力が発生する贈与契約だ。相続することになる財産は、グループ会社の株券(株式)や絵画を中心とした美術品で486億円と評価されていた。
だが、鈴木社長の言い分は最高裁で退けられ、千壽氏が遺産の4分の3を、残り4分の1は常司氏の兄弟たちが相続した。この間、千壽氏の影響力を排除したい鈴木社長と千壽氏との間で100件近い訴訟が繰り広げられた。
鈴木社長は、千壽氏を排除する狙いで、06年にポーラ・オルビスHDを設立し、持ち株会社体制に移行。ポーラ化粧品本舗をポーラに社名変更。10年、ポーラ・オルビスHDは東証1部に上場した。これで、千壽氏のくびきから抜け出し、鈴木社長体制が確立した。
鈴木社長側は「2005年に他の訴訟を含め和解が成立した」と説明している。
ポーラ・オルビスHDの業績は好調だ。17年12月期の連結決算は美容液「リンクルショット メディカル セラム」の大ヒットで、売上高は前期比11.8%増の2443億円、営業利益は同44.9%増の388億円、純利益は同66.2%増の271億円。株価も上昇、株式時価総額は初めて1兆円の大台を超えた。
「好事魔多し」の典型例だろう。No.2が反旗を翻し、創業家の骨肉の争いを誘発した。前回と同様、最高裁まで持ち込まれるのは確実とみられ、絶好調のポーラ・オルビスHDの業績に暗い影を落としかねない。
(文=編集部)