「守らなければクルマが売れない」法規制が生んだ巨大セキュリティ市場、次はロボットへ

●この記事のポイント
自動車サイバーセキュリティ市場を大きく動かした国連規則「UN-R155」。VicOne日本代表・小田章展氏への取材から、法規制が企業のセキュリティ投資を促した経緯と、AIによるリスク評価の効率化を解説する。さらにロボットやドローンなどフィジカルAIに広がる脅威、EUのサイバーレジリエンス法(CRA)が今後の市場形成に与える影響を読み解く。
クルマは走るコンピュータになった。通信でつながり、ソフトウェアの更新で機能が変わる。その利便性と引き換えに、サイバー攻撃の対象にもなった。
だが日本の自動車業界がこの問題に本格的に向き合い始めた大きなきっかけは、危機感だけではない。規制である。国連の車両基準調和世界フォーラム(WP.29)が定めたUN-R155は、自動車メーカーにサイバーセキュリティ管理システム(CSMS)の構築を求める国連規則だ。日本でも国内制度に取り込まれ、新型車から段階的に適用対象が拡大してきた。要件を満たさなければ型式認証に影響する。つまり、対応しなければクルマを市場に出せない。規制が、セキュリティ投資を事業上の必須要件へと変えた。市場を本格的に動かしたのは、規制だった。
その市場で伸びてきたのが、トレンドマイクロの子会社であるVicOne株式会社だ。2022年設立、資本金20億円、グローバルの従業員は約120名。自動車に特化した脅威インテリジェンスとセキュリティ製品を手がけ、東京では自動車を対象としたゼロデイ脆弱性発見コンテスト「Pwn2Own Automotive」を主催してきた。近年はロボットやドローンといったフィジカルAIの領域へ事業を広げている。
日本地域代表を務める小田章展氏は、日系電機メーカーでカーナビの設計開発に携わり、エレクトロニクス商社、コンサルティングファームを経てトレンドマイクロへ移った。クルマを作る側から、守る側に回った経歴を持つ。
本稿では小田氏に、法規制が日本の自動車業界に何をもたらしたのか、いま顧客が本当に求めているものは何か、そしてロボットの領域で同じことが起きるのかを聞いた。
●目次
- 「他社と同じレベルでいい」と言われていた頃
- 法規が変えた、商談の入り口
- 求められているのは「コストを下げる」こと
- 電気自動車とロボットは、よく似ている
- 「攻撃させることが目的ではない」
- 法規のない市場で、何をするか
「他社と同じレベルでいい」と言われていた頃
小田氏がトレンドマイクロで新規事業開拓のチームに在籍していた頃、業界のキーワードはIoTやM2M(機器同士の通信)だった。DXという言葉が広まる少し前のことだ。あらゆるモノがネットワークにつながり、そこにクルマも含まれていく。つながればセキュリティが要る。理屈としては、誰もが理解していた。
「つながることとセキュリティは関係がある、ということは皆さん大体理解されていました。ただ、具体的に何がどう必要なのか、というところまではなかなかでした」
より根深い問題は、セキュリティが売り物になりにくいことだった。
「セキュリティで差別化を図っていくというよりは、どちらかというとお守りに近い。守る点が強いので、他社と同様のレベルであればいい、という視点があったかと思います」
他社と同じであればいい。その基準で動く市場に、先んじて投資する動機は生まれない。積極的に取り組む企業は、ごく少数だったと小田氏は振り返る。
法規が変えた、商談の入り口
空気を変えたのは、技術の進歩でも大規模な事故でもなかった。
「転換期は、やはり法規ができたところだと思います」
UN-R155はサイバーセキュリティの管理体制を、UN-R156はソフトウェアアップデートの管理体制を、それぞれ自動車メーカーに義務づける国連規則である。要件を満たさなければ型式認証が下りない。
「これをクリアしないと車の型式認証が取れない。要はビジネスの存続ができない、ということになりましたので、ここは大きな転換点でした」
もっとも、規則が決まった瞬間に市場が動いたわけではない。
「2022年に決まったのですが、具体的に始まったのは2024年からです。法規が出るらしいという話は2022年、2023年頃からありましたので、早い方々はその辺りから気にされていました。ただ、多くが有効になったのは2024年からです」
規制は、商談の入り口そのものを変えた。
「まったく話を聞いてくれない、関心がないので、関わっていないので、という方はだんだん減っていきました。法規のことなので担当者がついていたり、タスクフォースのようなチームで関わっていますというケースもありましたので、会話ができる。頻度もケースも増えたかと思います」
条文は示されるが、実務に落とす手順書までは配られない。各社は法規を読み解き、体制を組まなければならない。
「当社のようなベンダーが、セキュリティ法規で何をするのか、どういう情報を持っているのかを求められるケースは多分にあります。情報収集でもしようかな、という入り方でも、いずれにしても会話ができるケースだと思います」
求められているのは「コストを下げる」こと
では、法規対応が定着した現在、日本の顧客はVicOneに何を求めているのか。小田氏の答えは、意外なほど即物的だった。
「現時点では、コスト低減が大きいかなと思います」
理由はセキュリティの性質にある。それ自体を商品として顧客から対価を得るのが簡単ではない。だから企業の視点は、攻めではなく「対応」に向かう。
法規が求めるものの一つに、リスクアセスメント(リスク評価)がある。どのような脅威が、どの侵入口から入り、侵入されたときにどれほどの影響が出るのか。それを分析し、定量化し、管理する。文章にすれば一行だが、実務の負荷は重い。
「それがわかる人間が、実際に分析する作業をしないといけない。簡単かというと、あまり簡単ではありません。知識やナレッジ、あるいは製品や技術側のものがなければ、なかなかできない。新製品があるごとにずっとやっていくというのは、大変だったりします」
人手が足りなければ外部に頼るしかなく、そこにも人のコストが乗る。VicOneが提示しているのは、その分析作業をしやすくするツールだ。人員を増やしたり外注する代わりに作業そのものを軽くする。
「AIの技術がかなり進んできていますので、それをベースにしたツールで解決できるものは、どんどん増えていくと思います。逆に言うと、人的なリソース支援でビジネスを進められているプレイヤーさんは、全体的には目減りしているのではないかと思います」
もっとも、日本の自動車産業は安心と品質を積み上げてきた業界でもある。確証の得られていない新しい技術を使うハードルは、これまでも高かった。AIについても同じことが起きている、とも小田氏は語ってくれた。
電気自動車とロボットは、よく似ている
VicOneはいま、自動車で積み上げた技術をロボットやドローン、ヒューマノイドといったフィジカルAIの領域へ広げている。何がそのまま持っていけて、何が通用しなかったのか。
「そのまま持っていけたものは、厳密にはありません」
そう前置きしたうえで、小田氏は電気自動車とロボットの構造がよく似ていると説明する。
「バッテリーがあって、その上に、動かす制御の元となるコンピュータがあって、それが内部のネットワークで連携されている。外部のネットワークやモバイル通信で、管理プラットフォームやクラウドとつながっている。この構成はかなり似ています」
違うのは動き方だ。ロボットは歩き、走り、腕を伸ばす。クルマは基本的に走る。動的な部分は異なるが、守るべき対象の骨格は重なる。
「電気自動車をはじめ自動車系のお客様を支援してきた技術が、多くの割合で技術的に展開しやすかった背景の一つかと思います。ただ、ロボットに搭載されているネットワークは当然違いますので、調整をかけていくところはあります」
もっとも、ロボットに組み込まれるAIモデルへの攻撃は、従来の脆弱性とは性質が異なる。AIへの指示文に細工をして意図しない動作を引き出すプロンプトインジェクションや、学習内容を汚染されたAIモデルに対して、そもそも「直す」という概念は成立するのか。
「攻撃や汚染がどのような内容だったかにもよりますが、基本的にはポリシーをアップデートしたり、対策を施すという形になるかと思います。これは不正なプロンプトなんだよ、というルールを入れるか、それを検知するセキュリティがあるかどうか、という形になってきます」
もちろん、ロボットでもネットワークやOS、ソフトウェアなど従来型の脆弱性対策は引き続き必要になる。そのうえでAIモデルを搭載する機器では、「AIをどう騙すか」という新たな攻撃面への対応も加わる。穴を見つけて塞ぐのではない。小田氏はこう言い換えた。
「騙されないようにする、という形ですね」
「攻撃させることが目的ではない」
2026年8月、VicOneは世界最大級のハッカーカンファレンス「DEF CON 34」で、ロボットに特化した「Robotic Hacking Community」を立ち上げた。物理シミュレーター上に構築したデジタルツインのロボットを対象に、参加者が攻撃を試みる。8月9日に無償公開した「VicOne Radeis Extension for NVIDIA Isaac Sim」にもここでの知見が活用されている。
Robotic Hacking Communityは、一見ホワイトハッカーを集めて攻撃を勉強するもののようにみえる。しかし、小田氏は明確に否定した。
「まず、攻撃させることが目的ではありません。脆弱性というのは、見えていないだけで身近に実在していて、脅威はすぐそこにあるんだよ、と。そういうことを業界や経営に認識していただくのが目的です。有識者が集まって特定のテーマで活動を行うことで、市場の注目という視点でも高まる。価値としては、そこが強いかと思います」
無償公開の発想も同じ線上にある。フィジカルAIを支えているのは演算基盤とプラットフォームであり、その先頭を走るのがNVIDIAだ。
「NVIDIAのプラットフォームを活用して何かを研究・開発する企業やプレイヤーは、やはり増えていくと思います。NVIDIAが新しいプラットフォームを展開していくときに、標準的なセキュリティの1つとして支援できるものがあります、と示す。それによって、始める前の段階からセキュリティをしておいたほうがいいのかな、チェックしようかな、という認識につながる」
開発者の関心は、まずAIで何を作るかにある。そこへ「セキュリティも一緒に検討しますか」と持ちかけても、話が進まないケースは一定数ある。だから、まず届ける。
「少しでも目に触れてもらう、情報を知っていただく、届けられるというのは、それだけでも意味があると思います。ひいては、その中の何社かにでも伝わってくれたら、さらに嬉しいかなと」
法規のない市場で、何をするか
では、自動車ではUN-R155が市場をつくった。同じことがロボットでも起きるのか。
「ロボットということで縛られないかもしれませんが」と前置きしたうえで、小田氏は欧州を挙げた。EUのサイバーレジリエンス法(CRA)は、ネットワークにつながる製品全般を対象とする、影響範囲の広い法規である。ロボットに限らず、欧州で製品を売るなら対象になる。
「自動車をはじめ、セキュリティの法規が先にできたのはヨーロッパでした。その後に日本ができた、という流れがあります。CRAが本格化するのが2027年12月ですので、そのタイミング、もしくは1年後、2年後に、日本でも関連する分野で何かしらの法規ができてくるというのは、あるんじゃないかなと思います」
欧州の企業はグローバルに事業を展開している。欧州だけ対応して他の地域はしない、という切り分けは現実的ではない。規制は国境の内側にとどまらず、取引網をたどって広がっていく。
AI全体の規制も同じ道をたどりつつある。欧州ではCRAに加えてAI Actも整備されている。一方、AIをめぐる技術や市場環境の急速な変化を受け、適用スケジュールや制度設計をめぐる議論も続いている。
「日本でも、あわせてAIのガイドラインやスタンダード、法規といったものは出てくるかと思います」
ならば、法規がまだない市場で、VicOneは何をするのか。日本でロボットやフィジカルAI向けの事業を本格的に始めてから、まだ1年に満たない。自動車向けで進めてきたパートナープログラムは参加企業が10社を超え、年内に20社まで広げる考えだという。
「法規もなく、実際に事故が起きているわけでもない。具体的なセキュリティ担当者がいる企業もありますが、いない企業が大多数です。まずは有識者やアーリーアダプターの方々を1人でも多く捕まえ、リレーションを持ち、必要性の醸成や、市場の感度を高める。そこから具体的な取り組みを起こしていく。今年に関しては、それが直近で重要かなと」
セキュリティはお守りであり、他社と同じレベルであればいい。十数年前の自動車業界から返ってきた言葉を、小田氏はそう振り返った。その空気を変えたのは新しい技術ではなく、国連が定めた一本の規則だった。
ロボットの世界に、まだその一本はない。法規を待っていれば市場はいずれ立ち上がるが、そのときには誰かが先に立っている。だから今は、見えないものを見えるようにして歩く。
派手な仕事ではない。だが自動車がそうだったように、規則はいつも、市場より少し遅れてやってくる。
(取材・文=昼間たかし)
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