新しいターゲットを獲得するために、まず、教室の「集中と選択」を実施した。教室数を半減させ、都市部の教室をメインで残した。そして大人にとって音楽教室に通うメリットを考えた。ただ単に音楽を習うことは大人にも楽しいことだという啓蒙をするのではなく、音楽を習うことで大人が得られるベネフィットをシンボリックに訴求した。それが「結婚式場で娘のためにピアノを演奏する父親」になったのだ。
市場の変化に対応し、適切なターゲットを定めることは、企業のマーケティング戦略としては特段に驚くべきことではない。ではなぜ、地方の一企業である東山堂が、突き抜けた全国的話題を得ることができたのか。
●クオリティへのこだわり
「安くて、そこそこのクオリティ」。これが地方CMの現状だ。しかし、東山堂はクオリティにとことんこだわり、エッジを立てようとした。実際のCMを観れば理解できるが、数千万円かけて制作した大企業のCMと遜色ない出来だ。その制作費は大企業のCMほど高額ではないが、地方CMとしてはかなり高額だ。制作費用に比重をかけた分、放送するのは地元放送局である岩手めんこいテレビの一番組内での30秒CMと、インターネット上のみにした。放映本数としては少なくても、質にはとことんこだわったこと。これが「ヒットへの発火点」のひとつとなった。テレビCMを観た人が気になって、3分強のネットCMを観る。そのネットCMを観た人がソーシャルメディアで拡散する。
それだけではない。地元で発火した小さな話題を聞きつけ、地元ネットメディアが情報を掲載し、その情報が全国的な知名度のある各ネットメディアに掲載され、それを見たテレビの大手キー局が番組で取り上げ、全国的な広がりを見せる。
こうして、当初の放送本数こそ少ないものの、全国的なヒットが生まれた。本数よりもコンテンツのクオリティへのこだわりがきっかけだったのだ。
●チームへのこだわり
東山堂のCM担当者は数年前に経理部門から異動になり、今回の制作に関わることとなった。そしてクリエイターは、東京の大手CMプロダクション勤務の後、岩手県に戻って制作プロダクションに就職したが、会社が倒産。そこの有志と1年前に会社を立ち上げたばかりだった。このふたりは共に30代で同年代だ。さらに同年代の地元広告会社の人間が加わり、“思い”を共有できるチームが発足した。
彼らには「妥協のない最高のCMをつくりたい」という強い思いがあった。クライアントである東山堂としては、事業を成長させるというビジネス上の狙いは当然あったが、それだけを目的とはしなかった。CM担当者の中には地元への熱い思いがあったのだ。岩手県には音楽大学がなく、「音楽不毛の地」と呼ばれることもあるそうだ。岩手県で老若男女に音楽文化を根付かせたいという思いが、彼の中にはあったのだ。
一方、倒産した会社の有志と起業したクリエイター。再起を図る彼の思いの中にも、東京ではなく地元を盛り上げたいという気持ちがあった。「このくらいのクオリティでよいだろう」という妥協的な考えはなく、「クライアント」「制作スタッフ」「広告会社」というヒエラルキーもなかった。ひとつのチームとして、同じ思いを持ち、妥協せずに進めた結果が、今回の感動CMにつながったといえる。ちなみにクライアントである東山堂も、制作スタッフも赤字だったそうだ。当事者意識の強さと使命感が全関係者で共有されていたからこそ、今回の成功につながったのだ。