オウム真理教の急拡大に「寄与」した日本のメディア環境は、今も何ひとつ変わっていない
マスメディアが生み出す“社会全体の正義”が、カルト集団の好敵手
もうひとつ、メディアでの露出にビビッドに反応していったオウムの活動をみて感じるのは、まるでマスメディアがオウムにとって“良き戦い相手”のような存在だったのではないかということだ。マスメディア越しにみる社会を仮想敵とすることで、その戦いを通じて活動の勢いを増幅させていったように思うのだ。
当時のゴールデンタイムに麻原彰晃がテレビ出演していたことを振り返り、殺人集団のリーダーの疑惑のあった人物を寛容に受け入れたメディアを問題視する声も上がっている。しかし逆に、一斉にメディアが糾弾した際に、そのアゲインストなエネルギーを梃子にエンゲージメントを強め、その活動を広く知らしめ、拡大していったプロセスが見られる。私自身は、このことを注視する必要があるのではないかと考えている。ここには、“マスメディアの主張”をあたかも“社会全体の主張”かのようにとらえてしまう日本のメディア環境が影響しているように思う。
本来、マスメディアの主張は一放送事業者の主張であって、決して社会全体の主張ではない。しかし、日本のメディア環境は異様にマスメディアが強く、社会全体論としての同調を生みやすい。このことによって、マスメディアの言動が社会全体の言動であるかのようにすり替わってしまう危険性を孕んでおり、現在にも通じる大きな問題だと考えている。
インターネットが普及した現代において、これほどマスメディアが強い国は非常に希だ。そして、表現が制限される傾向にあるマスメディアの現状は、ますます揶揄の対象になりやすいようにも思う。ある意味では尖ったカルト思想にとって、社会全体の緩やかな同調から生まれる正義は、格好の標的になってしまうのではないか。
多様な価値観、コミュニティが同居する時代にあって、社会全体の正義かのように振る舞うのは、誰しもが避けるべき態度なのだろうとも思う。いつの時代も敵を倒した者が、革命者であり、敗者はテロリストだ。もっともらしい社会の正しさは、革命やテロの好敵手になる。そのことを私たちは忘れてはいけないように思う。
(文=物延秀/株式会社UNITY ZERO 代表取締役社長)