三浦春馬さんは、母親へ愛憎交じる感情と罪悪感を抱いていたのか?「親子絶縁」の困難さ
急死した三浦春馬さんが複雑な「家族問題」を抱えていたのではないかと、「週刊新潮」(8月6日号/新潮社)が報じている。「新潮」によれば、三浦さんは3、4年ほど前ぽつりと「オレ、お母さんと絶縁した。もう何年も連絡とってないよ」と漏らしたことがあったという。
その背景には、三浦さんの母親と継父が、生活が苦しいからと、息子を通さず事務所にまとまったお金を無心したりしたことがあるようだ。
もしこの報道が事実だと仮定すれば、それを知った三浦さんが怒って、あるいは嘆き悲しんで、絶縁につながったとしても不思議ではない。ただ、「親と絶縁したくても、なかなかできない」「親を捨てたくても、捨てられない」などと訴える患者を数多く診察してきた精神科医としての長年の臨床経験から申し上げると、そう簡単に親と絶縁できるわけではない。
子どもが携帯電話の番号を変え、親に教えないよう友人や知人に頼んでも、あるいは親からの電話を着信拒否にしても、親は何とかして連絡しようとするだろう。友人や知人だって、「家族が急病で……」「親戚が急死して……」などと言われたら、親に連絡先を教えないわけにはいかないのではないか。三浦さんの場合も、「母親に携帯電話の番号を教えておらず、母親は連絡を取りたくて知人のツテを辿って息子の連絡先を入手しようとしていました」(「週刊文春」8月6日号/文藝春秋)という。
たとえ親との絶縁が物理的にできたとしても、心理的に絶縁するのは難しい。これは、次の2つの心理的要因による。
1) 罪悪感
2) 愛と憎しみの「アンビヴァレンス ( ambivalence )」
罪悪感
まず、親と絶縁することによって罪悪感にさいなまれる。血がつながっており、しかも自分を育ててくれた親との絆を断ち切ることに誰でも多かれ少なかれ後ろめたさを覚えるだろう。
おまけに、なかには離れていこうとする子どもを引き留めようとして、罪悪感をかき立てる親もいる。「あなたは私から離れていこうとすることで、どれほど私を苦しめているか、わからないの!」「あなたのためにすべてを犠牲にしてきたのに!」「これまで育ててきた恩を忘れて、親を捨てるなんて恩知らずよ!」「『血は水よりも濃い』という言葉があるのに、血のつながった親を捨てるなんて冷たすぎる!」といった言葉を親から浴びせられた患者を私は何人も知っている。
こんな言葉を三浦さんの母親が吐いたことが一度もなかったとしても、三浦さんは罪悪感にさいなまれていた可能性が高い。罪悪感は、優しい人ほど強くなるのだが、この連載で以前指摘したように、三浦さんは非常に優しいからだ。
愛と憎しみの「アンビヴァレンス ( ambivalence )」
罪悪感に拍車をかけたと考えられるのが、母親に対する愛と憎しみの「アンビヴァレンス(ambivalence)」である。「アンビヴァレンス」は、愛と憎しみのような相反する感情を同一人物に対して抱くことを意味する精神分析用語であり、「両価性」と訳される。
一連の報道によれば、三浦さんと母親はある時期まで仲が良かったらしい。これは当然だと思う。三浦さんは一人っ子だし、母親が実父と離婚して継父と再婚するまで母一人子一人の時期もあったのだから、母子のつながりが人一倍強いのは、むしろ当たり前だろう。
にもかかわらず、何らかのきっかけで母親に怒りを覚え、憎しみさえ抱くようになったとしたら……。こんなネガティブな感情を母親に対して抱くなんて、とんでもないことだと思い、「なんて悪い子どもなんだ」と自分を責め、罪悪感を抱くのではないか。
これは相当つらいに違いない。かつて母親に対して強い愛情を抱いていたほど、怒りも憎しみも強くなる。しかも、それに比例して罪悪感も強くなる。
「愛憎一如」という仏教用語がある。愛と憎しみは「あざなえる縄」のごとく、密接に結びついているという意味であり、その意味するところは「アンビヴァレンス(ambivalence)」とほぼ同じだ。仏教と精神分析は全然違う。にもかかわらず、愛と憎しみという相反する感情を同一人物に対して抱きうることを、それぞれが別の言葉で説明したのは、このような精神状態に陥ることが程度の差はあれ誰にでもあるからだろう。
もちろん、親に対して愛情だけを抱くほうがいいに決まっているが、人間の感情はそんなに単純ではない。むしろ、さまざまな感情が入り交じっている人が圧倒的に多い。だから、親に対して怒りや憎しみを抱いても、そのことで罪悪感を覚える必要はない。そういう感情があるのは、人間としてむしろ当たり前なのだということを知っていたら、三浦さんは追い詰められずにすんだのではないだろうか。
(文=片田珠美/精神科医)