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今は団地形式の官舎が建っている。もともとは精工舎の木造2階建ての女子寮が5棟並んでいたらしい。それを戦後そのまま利用して米兵用の慰安施設となり、その後、赤線となった。その名も「東京パレス」。とてもパレスという代物ではなかったはずだが、そういう名前だった。当時の写真には「青春の殿堂 都下随一のダンスホール」と書いた看板が見える。
また、もともと女子寮だったので、ここには共同炊事場や大浴場があった。美容室、化粧品屋、寿司屋、焼鳥屋、中華そば屋などもあり、生活には便利だったらしい。
施設の中がどういう間取りだったかは、わからないが、4畳ほどの広さの部屋がずらっと並んでいたのではないか。そして今も官舎は5棟ずつ2列並んでいる。よほどこの配置がこの土地に適しているらしい。あるいは水道の配管や電気の配線の都合だろうか。
あたりをぐるっと回ってみると、地主らしい大きな邸宅がある。また街道の反対側には公園があり、その北側は道路だが暗渠である。戦前の地図を見ると、この赤線のあたりは池である。おそらくそこを埋め立てて女子寮ができ、それが赤線になったわけだが、その頃の地図を見ると、まわりを小さな川が囲んでいたようだ。つまり吉原と同じ構造である。水路があるから別世界という感じがするし、働く女性たちからすれば、かたぎの世界とちょっと離れることができる。
かつて赤線地帯を囲んでいた川が今は暗渠になっている
ここには57軒の業者、135人のダンサー兼女給が働いた。ダンサーは、体を売る女性とは本来は別の職種なのだが、米兵にしてみればそんなことはおかまないなしで、ダンサーも結局体を売ることになったらしい。
かつて赤線であったことを感じさせるものはもう街中には残っていない。ただ、新中川を渡る直前に、ぼろい商店があり、中に入ると暗い店内に、おとなのおもちゃや成人誌を売る自販機が並んでいたのだけが、往時を偲ばせた。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)
赤線跡近くにおとなのおもちゃや成人誌を売る店があった
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